彼はマネージャー
上司はAランクマネージャー
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「柚木、今日残業な」
「…………」
スタッフルームのタイムレコーダーで打刻を済ませて準備をし、マネージャールームで朝の挨拶をと部屋に入った途端振りかけられた。
おそらく、定時ぎりぎりに柚木が出社したことで、二塚は少しイラついているのだろう。
長めの黒い前髪が、さらりと揺れ、切れ長の目はただ、パソコンを凝視していた。
「す、すみません二塚マネージャー。あの、ちょっと今日は遅れ気味で……」
タイムレコーダーは5分前に押したので全く遅れ気味ではないのだが、そう言わせるのが二塚だ。
「どっから来たの? 後ろの髪の毛。随分乱れてるけど」
ちらとこちらを見ただけで、朝の駐車場の車内で強引にねじ込むようなキスをされていたことを見透かしたのか、冗談なのか分からず、柚木はドキリと冷や汗をかきながら、
「えーと、な、直してきます……」
と、一旦部屋から出た。
今月初め、担当店舗異動+マネージャー補佐に昇格したことにより、二塚が担当する店舗へ来たのだ。二塚マネージャーは頭の良いクールな人だと会う前から周りから聞かされているし、実際接してみてもそうだ。
この半月程度ではまだ何も読めず、今もどんな理由でどんな残業になるのかも分からない。聞けば良かったのだろうが、聞いて「残業が嫌か?」と不本意に聞き返されるのも嫌だし、「定時ぎりぎりに来た分通常業務が押した」と事実をありのままに言われるのも嫌だった。従って、無言で残業を引き受けさせる。それが二塚スタイルのような気がしていた。
更衣室で少し乱れていた髪の毛を結い直し、もう一度マネージャールームへ入る。デスクトップパソコンのモニターの前で無表情の二塚は、自らが吐きだすタバコの煙を気にもせず、一旦手元に目を落として電卓で計算を始めた。
「柚木、昨日シフト変更で火曜の出社を頼んだんだが」
「はい」
再び変更で休みになられても、良成が妙に不機嫌になるのでやめてほしいのだが。
「その翌日の水曜は早出で頼む。8時出社な」
「はっ、えっ!?」
いやそんなの絶対無理でしょ!! 前日11時からあれしてこれして……。
「都合悪い?」
とは言わせない、という表情に既になっている。
「はい。分かりました。8時には出社します……」
「一応7時半くらいに来てて。作業の人が早く来るかもしれないから」
なんで、かもしれない。なんだ……。
「はい……」
良成に、同じこと言ったら、「何でかもしれない、なんだ」っていうだろうなあ……。
「それから……」
なんでまた水曜に限って……。ってことは木曜は代わりに休みになるのかな。連続で6日出勤できるから、そうだ。木曜が休みだ、絶対。来週木曜、良成は出社だったよなあ……。
「というわけで監査資料の確認を徹底するように」
「…………」
あ、話全然聞いてなかった。
「あ、はい」
でも聞いてなかったと言い出すな、という顔をしている。というか、聞いていなかったことが半分ばれている。
「忘れないように」
「…………はい」
いやなんか、監査資料がどうとか言ってたような……。
もちろん聞き返すことも許されず、そのまま二塚は部屋から出て行ってしまう。
監査資料……、監査資料の何を一体どう忘れないようにするんだっけ……。
とりあえずルーチンワークをこなして、時間が空いたらすればいいか。
まずマネージャー、マネージャー補佐共用のパソコンでメールを確認し、必要な物は印刷、仕分け、保管。順番に作業をしていく。マネージャールームの真ん中にある作業用のテーブルに陣取り、それだけで、午前中が終わってしまうのはいつものことだ。
ふと顔を上げると二塚が立っていて相当驚いた。
「いっ!? いつから……」
「監査資料のチェックは?」
「あっ……こ、これから終わってからしようと……」
「……朝言ったよね? 午後から抜き打ち監査があるから重要資料のサイン漏れチェックを必ずって。何でこの作業が先なわけ?」
ゲ、そんなこと言ってたっけ……。
「す、すみません。い、今からやります!」
「遅いよ。もう監査員が来てる」
え、そんな重要なこと言ってたっけ……?
「…………」
二塚の視線が、突き刺さるように痛く、冷や汗が噴き出したのも束の間で、
「もういいから。フロア行って」
明らかに面倒臭そうな声の指示に、
「……えっと……フロアで……」
フロアで伝票のチェックだろうか、でも監査が来てからしたって今更……。
「フロアで接客するんだよ。ここはもういい」
しっかり目を見て、冷徹に指示された。
って私、マネージャー補佐で、秘書的な……。
「無駄な仕事が多すぎる。それなら、フロアで接客してた方がまだマシだよ」