この空の下で
 母さんの口が開いたと思うと、すぐに閉じた。しかし母さんの口から、かすかに声が聞こえた。

「今は答えられない」

 意外な答えだった。こんな返答が返って来るとは思わなかった。私はすっかり動転したが、母さんは粛然としている。

「どうして」

「今は答えられない。今はそれだけ。だけど、あなたと要が高校に入ったら教えてあげるわ。そのアンケート意味。それまで、ゆっくりと待っていて欲しい、ね」

 今すぐ答えが知りたかったが、母さんの言葉には説得力があり、そして威厳があった。目にも、強い意志が宿っており、とても目と目を合わせて話せる状況ではなかった。この重い空気の中で、平気に、今すぐ言ってくれなきゃいやだ、なんて言えない。ましてそこまで私はバカじゃない。そんなこと、このような雰囲気は、歳と経験を重ねていくうちに、自然に理解していた。

 その時、キッチン横のドアが開いた。

「今日は暑いな」

 居間に入るなり、パンツと上一枚を着ているだけの父さんが入ってきた。その姿は、昔と一変していて、どこにでもいるおじさんを象徴していた。


 確かこの頃であった。父さんをやたらと敬遠するようになったのは。父さんの入った風呂に入りたくなくなったのは。隣にいるのが嫌になってきたのは。自分の父さんではないと言いたくなったのは。一緒の部屋にいるのも嫌になったのは。

 自分でもひどいことだと思うが、同じ空間にいたり、他人の前に一緒にいたりすると、変に父さんから遠退きたくなる。においのせいなのか、その容姿が悪いのか、それとも動作が悪いのか、私にはその理由が分からない。しかし、父さんがおじさんになったというのは感覚的に分かった。

 自分では気付けない理由。それが近くにあるように思えて、遠くにあるように思えた。


 結局、この真相は明かせなかった。しかし、その代わりとして、一つの誤解が分かった。それは自分自身のことであった。未来の自分には、今の自分のことを何でもお見通しだが、やはり今の自分では、自身を浅くまでしか理解していない。そのためか、その誤解は高校に入ってから分かった。そう、母さんとの約束の時に。
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