この空の下で
 私は目の前で起きた突然の出来事にどうすることもできず、ただ立ちすくんで、その母さんの姿を見ていることしかできなかった。

「う…苦しい…」

 居間に倒れていた母さんは、すぐに救急車に運ばれていった。

 私と要も救急車に同伴しようとしたが、定員の理由で、父さんだけが救急車に乗り込んで行った。

 それから長い間、私は要と居間で時計の時間を聞いていた。ゆっくりと進む時間は、まるで止まっているように思えた。居間は静寂に包まれ、その空間を丸呑みにした。しかし父さんは三時間で帰ってきた。しかしそこに母さんの姿はなかった。果たしてどうしたのだろうか。

 私はソファーから立ち上がり、そのことを父さんに聞いてみた。そして父さんは枯れたような声で話した。

「…乳ガン」

 父さんはイスに座り、テーブルにひじをついて、頭を抱えた。要はソファーの背もたれに身をまかせた。

 私はいつの間にか、ソファーに座っていることに気が付いた。ガン、という言葉を聞いただけで、頭がクラクラする。そしてそのガンになった人は、死んだ人と同然だと感じていた。母さんはこの世にはいない。私は勝手にそういう呆気と喪失感に浸っていた。

 ガンになるとはどんな気持ちだろうか。死ぬ前とはどんな気持ちだろうか。孤独とはどんな気持ちだろうか。

 私は知りたかった。今の母さんは、今の私に似ていると思った。悲哀感、喪失感。絶望感に脱力感。

 ふと私は今すぐ母さんに会いたいと思った。そしてそれをすぐさま実行に移した。

 走って家を出て、自転車に乗り、雨が降っているにも関わらず、私はしとしとと降る雨を突っ切った。

 ジメジメとする湿気の中、私は何も考えずに近くの病院へ向かった。すぐに家を飛び出したので、病院先を聞いていなかった。なので、病院を一つずつ回るしかなかった。

 病院の前に着くと、自転車を乗り捨て、病院の入り口に向かって走った。そしてロビーに入り、受付まで歩く。
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