この空の下で
 私は息を荒くしながら言った。

「母さん…古葉芳江さんは何号室ですか」

「古葉さんですか。ちょっと待ってください」

 そう言うと看護士は名簿をめくり、一つ一つの名前に目を走らせた。そしてすぐに顔を上げた。

「古葉さんはこちらの病院に入院されていないみたいですね…それにしても、その格好、大丈夫ですか」

 私の服はぬれていた。体は変に温かく、ジメジメとしていて気持ち悪い。前髪は垂れ、後ろ髪はきれいにそろっていた。

「大丈夫です…ありがとうございます」

 そう言った私はすぐさま受付を離れ、再びしとしとと降る雨の中に飛び込んだ。

 そしてその雨に打たれている自転車を起こし、すばやく飛び乗ると、私はペダルを思い切り踏んだ。

 私は風を切るように走っていたが、雨を全身で受けていた。そして渾身の力を振り絞ってペダルをこぎ続けた。もう疲れた。しかしここでこぐのをやめるわけにはいかなかった。私の中の何かがそれを抑制したのだ。しかし私の意識は朦朧としていた。朝からいろいろあって、もう何も考えていられない。

 そして角の店を右に曲がる時であった。

 私は思い切りハンドルを切った。そして視界は角の店から目の前にある大きなトラックに変わった。トラックはクラクションを鳴らしながらこちらに突進をしてくる。トラックは止まることもなく、大きく歪んだ。私もハンドルが切れず、そのまま地面にすべるように転倒した。

 そして私は自転車と一緒に頭から電柱にぶつかった。

「バカヤロー、危ね…お、おい、大丈夫か」

 私は触角をつまれたアリのように、まったく動かなかった。というより、動けなかったのが本当の話だ。

 トラックの運転手は急いだ様子で降りると、私におそるおそる近づいた。

「おい、大丈夫か。死んでないか」

 私はしばらく黙って何もしたくなかったが、それは運転手に悪い。

「…大丈夫…です」
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