この空の下で
「あなた、あなた」

 遠くから女の優しい声が、耳に入ってきた。その声はきれいで、良く聞きなれた声であった。そして声は朝食のにおいを持ってきた。

 男は寝返った。

「あなた、起きているの」

 男は上を向いて、ゆっくりと目を開けた。そこには真っ白な天井が広がって、窓からもまぶしい白い光が目に飛び込んだ。まったく見慣れない部屋だ。そして男がベッドから立ち上がった。勝手に体が動く。

 スリッパを履き、部屋を出て、光が行き届いていない暗い階段を降りた。そして見知らないリビングに入った。

 そこには、キッチンでキャベツを千切りにしている女性がいた。スリッパのこすれる音で分かったのか、手を止めてこちらを見た。

「あら、起こしに行こうかと思ったのに、早いわね」

 その声は先程の声と同じだったが、逆光によって顔は特定できなかった。

「パパー」

 かわいらしい子供の声だ。その声の主は誰かと振り向くと、二人の小さな子供がこちらに向かって歩み寄ってきた。


 かわいいスズメの声を耳にして、両手を上げて、あくびをしながら体を起こした。その拍子に肩にかかっていた掛け布団が床に落ちた。きっと夜中に看護婦さんが風邪を引くと思って掛けていったのだろう。古葉は落ちた布団を取って、ソファーの上にのせた。

 古葉はゆっくりとソファーから立ち、頭とひげを生やした顎を掻いた。

 あの夢は何だったのだろうと思いながら、また頭を掻いた。そして頭に刺激されて、昨日の出来事が脳裏によみがえった。

「あれ、手術は…」

 昨日のことなどすっかり忘れていた。そして古葉は上を見た。手術中の文字は寂しそうに消えていた。

 古葉はソファーに乗った布団を四つ折りにして、上着を肩に担いで、203号室へ向かった。
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