この空の下で
 203号室まで行くのに何分かかっただろうか。手術室の前から普通に歩けば一分もかからなかっただろう。

 古葉は直接203号室に向かわず、まずトイレへ向かった。朝一番だったため、電気はついていなかった。自分で電気をつけると、トイレはなかなか清潔感にあふれていて、さすが病院、と言えるほどきれいであった。

 用を足して手を洗い、ついでに顔も洗った。ついでといっても、古葉にとっては手を洗う事の方より、顔を洗う方が本来の目的であった。なぜかというと、顔を洗う時に手を使うからである。手を洗って顔も洗う、これすなわち一石二鳥である。それをすることで、朝一番の顔洗いは気持ちいいと感じる瞬間であった。

「ふぅー」

 古葉は天井を見上げて、思いっきり首を下ろして、顔の水滴を落とした。しかし、まだ水滴が残っていたので、残りはハンカチで拭いた。トイレを出る時、自分が電気をつけたのを忘れて、何気ない顔でそこを通過した。

 次に古葉は待合室へ向かった。待合室のすみに設けられている、冷水気のあるところへ向かうためである。

 冷水機のボタンを押して、水を口に含んでうがいを始めた。そしてそっと水を吐いて、また同じことを繰り返す。このことはトイレでやればいいのだが、さすがにトイレの水は口に含みたくない。古葉はうがいを終えると、今度は水をがぶがぶと飲んだ。水がのどを潤すのが、気持ち良くてたまらなかった。

 待合室を離れ、今度こそ203号室に向かおうと階段を昇ると、中庭の大きな木が目に入った。それを見ながら廊下を歩くと、中庭の向こう側にある、一階の廊下に設置されている自動販売機に目がついた。古葉はついでに、とよく目に付く所に寄る癖があった。

 そして古葉は向きを変えて、もと来た廊下を通り、階段を降りた。しかしあと三段というところで、古葉の目からは涙が溢れ出てきた。自分でも無意識のうちに、自然に目の奥から涙が次々と出てきた。古葉はポケットから、誕生日の日に妻から貰ったハンカチで目を拭いた。その時、古葉は自分に対して心の底から叫んだ。
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