ロスト・クロニクル~後編~

「早く行く」

「……厳しい」

「そのようなことを言うと、メルダース時代の再現をするぞ。お前の顔を見ると、再現したくなる」

「い、行くよ」

 爽やかな笑顔で脅しに掛かるエイルに過去のトラウマが蘇ったのか、顔から血の気が引く。メルダース時代の再現など冗談ではなく、あれが再現されては命が幾つあっても足りない。

 エイルの脅しに耐え切れなくなったラルフは反射的に椅子から腰を上げると、そそくさと部屋の廊下へ飛び出す。そして風呂の支度が済んだことを告げに来たメイドに案内して欲しいと頼むが、相手は漂う悪臭に嫌悪感を抱いたのか目元に大量の涙を浮かべ懸命に耐えている。

 流石に、この悪臭に耐えられる人間は存在しないだろう。一般的に言われている汗臭いという臭いではなく、油が腐った臭いと生ゴミの臭いが混じり合ったような独特の臭いで嗅覚にダメージを与える。

 これでは案内するメイドが不憫なので、ラルフにメイドから離れて歩くように言葉を掛ける。勿論、全く理解できない内容なのでラルフから異論の言葉が上がるが、華麗に横に流す。

「いいだろう?」

「……はい」

「宜しい」

 ラルフにとってはエイルが放つ圧力は災難そのものだが、悪臭に悩まされていたメイドにとっては天の助けならぬ女神の助けといって過言ではない。メイドはエイルに感謝の気持ちを伝える形で恭しく頭を垂れると、ラルフと距離を取りつつ彼を風呂がある場所へ案内する。

 不平不満を言っていたが何とか風呂に行ってくれたラルフに安堵感を覚えたのか、エイルはフッと疲労感たっぷりの溜息を付く。また、部屋の隅で待機していたメイドも悪臭を漂わせていたラルフが立ち去ってくれたことにエイルと同じ安堵感を覚えたのか、表情が晴れやかだ。

 しかしその後に待っていた出来事に、エイルは顔を引き攣らせてしまう。一体何日身体を洗っていないのかと尋ねたいほど汚かったラルフが使用した風呂は、地獄絵図といっていい。

 彼の為に用意してあった新品の石鹸は全て使用され、抜け落ちた髪は至る箇所に張り付いていた。また床に点在していた黒い物体は身体から剥がれ落ちた古い肌――所謂、大量の汗と油と埃などが混じった垢。それらが石鹸のいい香りと混じり合い、独特の匂いを放つ。
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