あの日の記憶は湿った空気のにおいと君の泣き顔に彩られている
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教室では既に明信が席について携帯で音楽を聴きながら課題を進めていた。
「明信おはよう」
「おはよー加藤くん」
おれたちが声をかけると明信は頭を上げてヘッドフォンを外した。人好きのするたれ目を細め口元に緩やかな弧を描く。
「立川も圭太もおはよう」
「う、うん。そのプリント今日出すの?」
立川が明信を相手に緊張しているのが他人目にもわかる。でも立川はおれといるときよりどことなくにこやかだ。
彼女が恋をしている、そんな瞬間を目の当たりにすると、すきま風が吹いたような空寒い気分になる。嫉妬より少し複雑で、疎外感よりは当事者的な、そういう感覚。
「ん。そうだよ。もうちょいで終わるから……」
「頑張れ加藤くん」
「がんばるー」
立川と明信が付き合ったら、おれはどうすればいいんだろうか。どこにいればいいんだろうか。
なんでもない振りをして、この二人がこれ以上仲良くなっていくのを見ていられる自信はない。明信のことも嫌いにはなれないし、立川が好きなこともやめられそうにない。
ゆっくりと落ち込んでいく気分とは裏腹に、窓の外の空は少しずつ軽くなっていくようだ。