あの日の記憶は湿った空気のにおいと君の泣き顔に彩られている
その日の授業にはまるで身が入らなかった。代わりに記憶の中の立川が走馬灯のように駆け巡る。ぐるぐる、ぐるぐる。
『あ、あのね。溝口くん教科書みせてくれないかな? ごめんね今日うっかりしてて』
『溝口くん、ぐっちーって呼んでもいい?』
『加藤くんがみんなで夏祭り行こうって!』
『えっほんと?加藤くんもぐっちーも水曜どうでしょうわかるの?!』
『何してたって……二人のこと待ってたんだよ』
『私、実は加藤くんのことが好きなの……』
『ぐっちー!加藤くんの誕プレ一緒に選ぼう。でも正直、何贈っていいのかよくわかんないんだよね』
『部活で走ってる加藤くんが一番カッコいいと思うんだ』
『加藤くんって好きな人とかいないよね?大丈夫だよね?』
『私が加藤くんを尊敬するように、加藤くんが尊敬できるような私になりたいな、なんて』
『ぐっちー……なんかごめんね加藤くんのこと色々聞いてもらったりして』
その時々の立川の表情、声音、柔らかい髪、指先の震え。全部覚えている。明信を見る立川の横顔に恋をしたのだ。
おれは立川に近づくために走るけれど、立川はそれよりも速く走る。明信に近づくために。その実おれは明信に声をかけて、こちらに注意を向けさせ、立川に速く走る方法について指導した。
おれは立川を幸せにしたい。でも自分の手で幸せにされることを彼女は望んじゃいない。
もう少しだけおれが欲深な人間だったら、君を振り向かせることができただろうか。