僕と御主人(マスター)の優雅な日常
濡れてしまいます。
酷い雨だ。僕は空を見上げながら、天気予報を見ていなかったことを酷く後悔していた。
僕は基本的に一人ではロシュジャクラン家の領地から出ない。出なくても困ることはないし、御主人(マスター)の従者なのだから御主人(マスター)のいる場所にいる。
御主人(マスター)は基本的に隙がなく計画的な人なのだが、今日は珍しくいつも使っている羽ペンの替えのインクがなかった。
「しまったな・・・インク切れか・・・」
そんな御主人(マスター)の声を聞いて、僕は役に立ちたくて名乗りを上げた。
「御主人(マスター)! 僕が買いに行きます!」
御主人(マスター)が使っている羽ペンのインクは、以前一緒に買いに行ったことがあるから場所がわかる。でも、御主人(マスター)の顔を見れば乗り気じゃないのがわかった。どうして・・・? 僕じゃ、お使いも満足にできないと思っているのかな・・・。
「御主人(マスター)、場所もわかりますし、お任せください」
「いや、私が買いに行く」
「ダメですよ! まだ仕事がたくさん残ってるのわかってるんですからっ」
「馬車で行けばすぐだ」
「ダメですっ」
渋る御主人(マスター)から半ば無理矢理お金を受け取ると、僕はそのまま飛び出した。
正直、その羽ペンの店は近くはなかった。それでも何故か御主人(マスター)の役に立ちたいという思いが日に日に強くなっていて、こうやって強引にでも仕事を見つけて、僕は僕の存在価値を見出そうとしていたのかもしれない。
「へい、いらっしゃい」
お馴染みのお婆さんが姿を現し、僕の姿を見るとこう言った。
「お前さんは、ロシュジャクラン家の御子息の従者だね。今日は一人かい? ・・・珍しいねぇ」
「御主人(マスター)がいつも買っている羽ペンのインクが欲しいんだ」
「わかったよ。ちょっと待ってな」
後はインクを受け取ってお金をもらって帰るだけ・・・。少しは御主人(マスター)の役に立てただろうか?
しばらく待つと、いつものインクが出てきた。お金を払い、急ぎ足で元の道へと戻る。
「なんだか雲行きがあやしいな・・・」
それから間もなくして、ぽつぽつ雨が降り出した。御主人(マスター)のインクが濡れないように懐にしまい、全速力で走る。天気予報を確認していなかったことを深く後悔しながら、僕はロシュジャクラン家を目指した。
最初は小降りだったら雨も、追い討ちをかけるように次第に強くなってきて、僕はずぶ濡れになった。
「くしゅんっ」
はあ、はあ、と荒い息を吐きながら、僕は大きめの木の下に逃げ込んだ。雨が完全に防げるわけではないが、直接当たるよりマシだった。
空を見上げながらしばらくそこにいたが、雨が止む様子はない。なんだか自分が滑稽に思えてきて、涙が出てきた。
「バカだな・・・。僕、なにしてるんだろう・・・」
「全くだ」
「え?」
幻聴だろうか? 御主人(マスター)の声が聞こえた気がする。
「これだから目が離せない。ほら、帰るぞ」
やっぱり御主人(マスター)の声がする。雨に濡れたせいで熱でも出たのだろうか? 視界が霞み、身体は怠い。急に身体が浮いた気がした。
「熱いな」
やっぱり御主人(マスター)だ。ほんのり紅茶の香りがするから。こんなに近くで香るってことは、僕は御主人(マスター)に抱き上げられてるんだ。そう認識して、僕は慌てて言う。
「御主人(マスター)、降ろしてください。僕濡れてるから、御主人(マスター)も濡れちゃう・・・」
「構わない」
いや、構ってください。御主人(マスター)まで風邪をひいちゃいます。たかが従者なんか、直接お迎えに来なくてもいいのに。また御主人(マスター)に迷惑かけちゃったな・・・。やっぱり僕は、従者失格だ・・・。
そう思えば悲しくなって、ぽろりと涙が零れた。不甲斐ない自分が情けなかった。
「どうした? 辛いのか・・・?」
御主人(マスター)の声が聞こえる。返事がしたい。でも・・・、もう話すのも怠かった。
「ごめ・・・い」
意識を失ったセドリアを抱えて御主人(マスター)は歩き出す。
「お前はお前のままでいい」
そんな優しい言葉は届かず、僕の意識は暗闇へと溶けていった。
【End】