朝鮮王朝時代の用語解説集
粛宗の側室③(榠嬪朴氏、寧嬪金氏、貴人金氏、昭儀劉氏)
※日付は旧暦です。
◇榠嬪朴氏(ミョンビンパクシ)
生没年:?~1703
1698年
11月14日、懐妊が判明し従四品の淑媛となります。禧嬪張氏や淑嬪崔氏よりも先に承恩尚宮となっていて、10年程が経っていました。
1699年
6月3日、昍(フォン:後の延齢君)を出産。
1699年
10月23日に端宗の復位を祝い、従二品の淑儀(スギ)となります。
1702年
側室最高位である正一品の榠嬪となります。
1703年
7月15日に薨去。同じ年の9月3日に王子・昍が延齢君に封じられる。
延齢君は21歳という若さで亡くなっていて、粛宗も酷く悲しんだとされています。世子や延礽君
より可愛がられたとされていて、待遇もかなり違ったそうです。
◇寧嬪金氏(ヨンビンキムシ)
生没年:1669~1735
本貫:安東(新安東)
安東(新安東)は、粛宗の3番目の妃・仁元王后や英祖の2番目の妃・貞純王后(チョンスンワンフ)を輩出している一族で、寧嬪金氏も2人の親戚だと思われます。
1686年
5月27日、揀擇(カンテク:妃や側室選びの事)により従二品の淑儀として宮廷入りします。西人派が南人派を恐れ、新たな側室を迎えたとされています。同じ年の11月5日、従一品の貴人となります。
1689年
己巳換局によって西人派が粛清された為、私邸へ。
1694年
甲戌換局によって仁顕王后が復位するのと同時に宮廷へ戻ります。
1702年
側室最高位である正一品の寧嬪となります。
1720年
粛宗の薨去に伴い、私邸へ。
1735年
薨去。英祖は彼女の死を悼み、深く悲しんだとされています。また寧嬪金氏も延礽君の面倒を見ていたので、仲は良かったそうです。