瞳が映す景色
面倒だなあと、近くのコンビニに入ってビニール傘を買う。数はもう殆どなくて、黒い大きめのサイズのものしか残っていなかった。
色が気持ちまでそうさせる。電車内でも大きさは邪魔になると思ったけど、最寄り駅近くのコンビニに売っている確証はないし、風邪のリスク回避として手に取った。
溜め息混じりに吐いた息は、すぐ近くにある電車内のガラスを曇らせた。白くならない箇所が一本線であって、息が届いていない右方向に続いている。辿って曇らせると、見知らぬ誰かの名前が浮き上がってきた。
楽しい雰囲気が伝わってくる誰かの名前には、最後にハートのマークが添えられていて、ガラスに映るあたしの頬にそれが合わさった。
映るのはそれだけじゃなく、目元の位置には、ガラスに飛んだ外の雨の雫が、まるで涙みたいに貼りついていて、ちぐはぐでおかしい。
ちぐはぐな世界の自分と目を合わせた瞬間、電車は少し急なブレーキをかけ、駅に停車する。
乗り換えがふたつあるこの駅は、従って乗降客も多い。最寄り駅まで一直線のあたしは、扉付近から奥に移動する。そこは、最後尾、端の端の角っこだった。
さっきよりも密度の増した車内は、否応なしに他人と密着する。しかも、今日みたいな日は傘によって服がしっとりとしてくる。
息、しにくいな。
ふと思い出す。人生で一度だけ、こういうラッシュから守られながら帰宅した時間のことを。
幸せだったなんて、馬鹿だなあ。守ってくれてありがとうと、気付けなかったから言えてないな。
金曜日。時刻は午後八時。
明日は休みだ。
もう帰っているんだろうか。まだ、相変わらす忙しくて、今日もまた、夜遅くまで仕事や勉強をするんだろうか。
長くて綺麗な指先がペンを握り、記憶にある部屋にいる背中を、瞼の裏に浮かべた。