未来からの贈り物
日本は200年以上に渡って鎖国を続けていて、対外的な窓は長崎の出島に限られ、日本人の海外渡航や大船建造の禁止など統制が行われていたらしい。
文化8年のゴローニン事件、文化5年のフェートン号事件のような摩擦・紛争をきっかけに異国船打払令が出され、逆に非武装商船に対する発砲事件への反省から薪水給与令出されるなど、幕府の対外政策は揺れ動いていたそうだ。
嘉永2年、難破捕鯨船員と密航者ラナルド・マクドナルドの返還を求めてジェームス・グリンが来航し、長崎奉行の仲介で解決する。幕府はこれらアメリカ人をオランダ船で送り返す予定であったが、アメリカ人が日本人に虐待されていると情報が誤って伝わったために、グリンは強硬な姿勢で交渉に臨んだ。この強硬策の成功が後のペリーの砲艦外交による開国要求の一因となった。
続いてアメリカは東インド艦隊司令長官に任命されたマシュー・ペリーを派遣する。ペリーは共和党のフィルモア大統領から海軍の作戦行動として日本との条約締結を命じられるが、アメリカでは交戦権が上院に属するため、発砲は禁止されていた。ペリーは蒸気船を配備した東インド艦隊を引きいて、嘉永6年、浦賀沖に来航し、開国を求めるアメリカ大統領国書を提出した後、日本を離れた。幕府では老中阿部正弘らを中心に、諸大名から庶民まで幅広く意見を求めた。ペリーは国書の返答を求めるため、再び浦賀へ来航した。日米和親条約が結ばれ、下田と箱館を開港し、日英和親条約が、日露和親条約がそれぞれ締結される。
幕府は嘉永6年には大船建造の禁を緩和、海外渡航が解禁される。嘉永7年にはオランダ商館に蒸気船2隻を発注した。その内の一隻である咸臨丸は、安政7年に木村芥舟、勝海舟らを乗せて横浜を出航、太平洋を渡った。
米国軍艦で渡米した万延元年遣米使節の護衛が名目。
安政3年、アメリカ領事タウンゼント・ハリスが修好通商条約締結のため来日し、江戸城へ登城。老中堀田正睦はこれを京都の朝廷に上奏したが勅許を得られず、徳川家定の将軍継嗣問題とも関係して南紀派、一橋派の抗争となる。安政5年に大老に就任した井伊直弼は、日米修好通商条約を締結、紀州藩主徳川慶福を14代将軍にした
同様の条約がイギリス、フランス、オランダ、ロシアとも結ばれた。
安政6年には箱館、横浜、長崎が開港され、本格的な貿易が開始された。貿易相手国は主にイギリスであった。日本からは生糸や茶などが輸出され、毛織物、綿織物や艦船や武器などが輸入された。
安政五カ国条約は「領事裁判権」、関税自主権の放棄、片務的最恵国待遇など、日本にとって不利な内容を含む不平等条約であった。
但し、条約調印時にその不利が十分認識されていたわけではない。幕末の通貨問題、外国商人が日本商品(特に絹)を高く購入したことにより生じた物価上昇などが、尊王攘夷運動の激化や一揆、打ちこわし等を招いた。
条約港となった横浜、神戸、長崎などでは外国人居留地も設置された。