潮にのってきた彼女
しかし現実的な痛みのおかげで、自分の状況を冷静に考える余裕ができた。

とりあえず、俺は生きているらしい。

と、いうことは。

あの状態から自力で這い上がったとは到底考えられない。

ひとに助けられたのだとすれば、今目の前にいるひとが命の恩人ということで、辻褄が合うはずだ。

はず、だけど。


「あの、俺、どうしてここに……」

「……遠くから、落ちるのが見えたの。もっと速く泳いでくればよかったわ」


彼女は微笑みを浮かべ、しかし視線を不自然に逸らしながら言った。


こんな華奢そうな女の子が、たぶん1人で、溺れている人間を?

容易には信じられなかったが、そこで疲労感に思考を妨げられた。


「ありが、とう……」


再び思考を巡らせることは億劫すぎたため、とりあえずお礼は言っておこう、と思った。


「うん、無事みたいで、よかったわ」


彼女は瞳を煌めかせ、笑顔を浮かべた。

その瞬間俺は、耳に波のさざめきのみを感じ、焦げるような暑さも忘れた。


優しげな笑顔、瑠璃色の瞳、亜麻色の髪。
さざめきだけが世界を覆う。

忘れられないシーンが脳裏に焼き付いた。

鼓動が大きくなっていく。
笑顔のまま目を細めて視線を海へやった彼女から、目が離せなかった。

強く風が吹きつけ、亜麻色をたなびかせる。

心臓はうるさく響いていた。


ぼんやりとこのまま化石になることを願った。
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