シンデレラを捕まえて
「ほとんど終わってたんだっけ。ええと、これで最後?」
「あ、うん……」
シンクに残った泡を洗い流し、布巾を片づける。すっきりとしたところで時計を見上げると、二十二時を回ったところだった。
「さて、少し作業して寝るかな」
「工房に行くの?」
「いや、書類作り。木をいじってだけいられたらいいんだけどね」
肩を竦めて、穂波くんは私の頭に手を載せた。
「今日は、ごちそうさま。美羽さんも疲れたでしょ。早く寝て」
優しい声。ふわりと、石鹸と穂波くんの匂いがした。手を伸ばせば、胸元に触れられる。見上げれば、私を見下ろす顔がある。頭に触れた大きな手のひらは温かい。
そんなに疲れているわけではないけれど、思わずこっくりと頷く。そんな私に、穂波くんの顔が近づいてくる。思わず目を閉じる。おでこに、唇が触れる感触があった。ちゅ、と小さなリップ音をたてて、温もりは離れた。
「おやすみなさい、美羽さん」
「おやすみ、なさい」
穂波くんはすい、と離れて、自室に戻って行った。
唇が触れた場所が、じんじんと痺れる。そこにそっと指先を添えた。
穂波くんと共に生活するようになって、五日。穂波くんは、私に必要以上に触れてこない。寝る前に、おでこに唇を軽く落とすだけだ。
さっきのキスが、ここに来てからの初めてのキスだった。
もっとして欲しい、触れて欲しい、そんなことを思ってしまう、けれど。
けれどそれはきっと、穂波くんが私を大切にしようとしてくれているからで。
そのことが嬉しくて、でも少しだけ、寂しい。温もりを共有できたら、どれだけ幸福感に包まれるだろうと思ってしまう。
「私って、よくばり」
小さく笑う。穂波くんのことを考えたら、何もかもを欲しがってしまうんだ。包み込まれるような優しさも、燃えつくされてしまいそうな熱情も、シンとした静謐な姿も。
穂波くんの持つもの全てを独占したいと思ってしまう。
「ほんと、よくばり」
幸せだと思っているのに。
ふるりと首を一度だけ振って、私は自室に戻った。
携帯が新着メールと着信があったことを知らせている。二ケタに及ぶメール全てが比呂からで、着信にもまた比呂の名前があった。唯一あった別の名は大家さんのもので、留守電が残されている。
『高梨さんですか? あなたのお知り合いだとかいう男性ねえ、怖がられてるんですよ。本当にいい加減にしてもらえませんか。こちらとしても、他の入居者の方たちからの苦情に困ってるんですがねえ』
苛立ちを隠そうとしない大家さんの言葉に身が竦む。ああ、やっぱり比呂には何も伝わっていない。
「どうにか、しないと……」
のろのろとメールを辿る。同じような内容ばかり。しかし、最後に届いたメールに、スクロールしていた指先が止まる。
『とにかく、一度会おう。そうじゃなきゃ、始まらない。俺だって、このまま拒否され続けると引き返せない』
これまでになかった、少しだけ理性的な内容。それは私の恐怖心を僅かに和らげた。この比呂となら、話せるかもしれない。
躊躇いながら、返信メールを作った私は、しばしの逡巡の後、送信ボタンを押した。
「あ、うん……」
シンクに残った泡を洗い流し、布巾を片づける。すっきりとしたところで時計を見上げると、二十二時を回ったところだった。
「さて、少し作業して寝るかな」
「工房に行くの?」
「いや、書類作り。木をいじってだけいられたらいいんだけどね」
肩を竦めて、穂波くんは私の頭に手を載せた。
「今日は、ごちそうさま。美羽さんも疲れたでしょ。早く寝て」
優しい声。ふわりと、石鹸と穂波くんの匂いがした。手を伸ばせば、胸元に触れられる。見上げれば、私を見下ろす顔がある。頭に触れた大きな手のひらは温かい。
そんなに疲れているわけではないけれど、思わずこっくりと頷く。そんな私に、穂波くんの顔が近づいてくる。思わず目を閉じる。おでこに、唇が触れる感触があった。ちゅ、と小さなリップ音をたてて、温もりは離れた。
「おやすみなさい、美羽さん」
「おやすみ、なさい」
穂波くんはすい、と離れて、自室に戻って行った。
唇が触れた場所が、じんじんと痺れる。そこにそっと指先を添えた。
穂波くんと共に生活するようになって、五日。穂波くんは、私に必要以上に触れてこない。寝る前に、おでこに唇を軽く落とすだけだ。
さっきのキスが、ここに来てからの初めてのキスだった。
もっとして欲しい、触れて欲しい、そんなことを思ってしまう、けれど。
けれどそれはきっと、穂波くんが私を大切にしようとしてくれているからで。
そのことが嬉しくて、でも少しだけ、寂しい。温もりを共有できたら、どれだけ幸福感に包まれるだろうと思ってしまう。
「私って、よくばり」
小さく笑う。穂波くんのことを考えたら、何もかもを欲しがってしまうんだ。包み込まれるような優しさも、燃えつくされてしまいそうな熱情も、シンとした静謐な姿も。
穂波くんの持つもの全てを独占したいと思ってしまう。
「ほんと、よくばり」
幸せだと思っているのに。
ふるりと首を一度だけ振って、私は自室に戻った。
携帯が新着メールと着信があったことを知らせている。二ケタに及ぶメール全てが比呂からで、着信にもまた比呂の名前があった。唯一あった別の名は大家さんのもので、留守電が残されている。
『高梨さんですか? あなたのお知り合いだとかいう男性ねえ、怖がられてるんですよ。本当にいい加減にしてもらえませんか。こちらとしても、他の入居者の方たちからの苦情に困ってるんですがねえ』
苛立ちを隠そうとしない大家さんの言葉に身が竦む。ああ、やっぱり比呂には何も伝わっていない。
「どうにか、しないと……」
のろのろとメールを辿る。同じような内容ばかり。しかし、最後に届いたメールに、スクロールしていた指先が止まる。
『とにかく、一度会おう。そうじゃなきゃ、始まらない。俺だって、このまま拒否され続けると引き返せない』
これまでになかった、少しだけ理性的な内容。それは私の恐怖心を僅かに和らげた。この比呂となら、話せるかもしれない。
躊躇いながら、返信メールを作った私は、しばしの逡巡の後、送信ボタンを押した。