*Promise*~約束~【完】
その後、猫はムギ、とリオによって名付けられた。
エリーゼが黒なのになぜムギなの?と質問すれば、リオは笑っておかしいかな、と答えた。
彼女によれば、瞳の色が金色と緑色で、それが稲穂のように思えたから、だそうだ。金色は実をたわわに実らせている時期で、緑色はぐんぐんと成長しているときの瑞々しさに思えたから、と自慢げに言っていた。
もっとネーミングセンスが無かったのか、とエリーゼは肩を竦めたが、本人が満足しているならそれでいいか、と無理やり納得させた。
本人とは黒い猫のことである。
「ムギちゃんおいでー」
「ちゃん、ってこの子オスよ」
「別にいいじゃん。あだ名にちゃんが付く人だっているんだからそれと一緒だよ」
ふて腐れたように言っているリオに擦り寄ったムギは、ニャーンと一言鳴いておねだりをした。
リオはさっきまでの不機嫌さを消して笑顔で見下ろすと、お尻を抱き抱えた。ムギは前足をリオの腕に乗せて満更でもなさそうだ。
若干頭が彼女の胸に当たっているのが気になるが、リオは使い魔だと知らないため何も言えない。
(変態かおまえはっ!)
エリーゼは今すぐにでも引き剥がしたい衝動に駆られたが我慢する。ムギに嫌われてしまってはいざというときに利用できない。
その時というのは、彼から悪魔のことを聞き出すこと。この敷地から出してしまえばきっと話すことができるようになるだろう。
しかし、本人に嫌がられてはもとも子もないので何もしない。今はとにかく様子を見るしかないのだ。
それに、あの笑顔を自分のために壊してしまうのは心苦しい。それは、ムギの言葉の内容によっては処分しなければならなくなるからだ。
ムギは今や一番謎に満ちた存在であり、一番扱いに困る存在で、エリーゼはほとほと参っていた。
ムギがここに来てから一週間ぐらい経つが、その周囲に溶け込む早さが尋常ではなかった。
ダースには媚びを売りエサをねだり、ルゥにはちょっかいを出して遊んでもらったりと、二人とは特に仲が良くなっていた。唯一接触していないのはライナットぐらいか。
警戒しているのか近づこうともしない。それとも、他に何か考えがあるのか……
ムギは、ライナットとは関わりを持とうとしなかった。
「あ、エリーゼ?これからお菓子作って来るからね」
「今日は何を作る気?」
「あれ、なんか怒ってる?」
「怒ってないわよ」
「言い方がキツかったなって……まあいいや。今日作るのはパウンドケーキだよ、楽しみにしててね」
「ええ」
エリーゼはムギを降ろして部屋から出て行くリオを見送った。
所在なさげにムギはしばらくうろうろとすると、気になったのかエリーゼが読みかけていた本を前足で弄った。
エリーゼはツカツカと歩み寄って本を取り上げる。ビリビリにされては堪ったものではない。
これは爪研ぎじゃないのよ、と睨み付けるとムギは心外だ、とでも言うように尻尾を力強く降った。
猫は不機嫌になると尻尾を振ることが多い。
ムギは上に浮かんでいる本が相当気になるのか、足を曲げて腰をくねくねとさせると、狙いを定めて本に向かって飛び掛かった。
エリーゼは避けるようにひょいっと軽々と標的を上げる。なにすんだ、とムギは抗議の一声を鳴いた。
「面白いことなんて書かれてないわよ。セイレーンの話が書いてある面白くもない本だけど、重要文書だからあんたにはあげない」
「ニャー……」
「セイレーンのことが知りたいの?生憎、私たちも詳しく知らないわ」
セイレーンとは、その歌声をもってすれば悪魔の力を押さえ込むことも、天使に力を与えることも可能な人間のことだ。これはバラモンとはまた違う存在で、謎も多く解明されていない部分が多い。
セイレーンは世界に何人かいるそうだ。しかし、自覚するものならば苦労はしないのだが、恐らく自覚なしだ。自分がセイレーンとも知らずに死んでいった者は少なくないだろう。
天使と悪魔はまたセイレーンを巡って争ってもいた。天使に加護を与えるセイレーンは悪魔にとっては邪魔でしかなく、お互いに護る消すの攻防を続かせていた。
その正体がわからずとも、探し出して消すことは可能なため、悪魔は執念深くセイレーン探しを続けている。もちろん、天使はそれを邪魔して曖昧な存在のセイレーンを護り続けていた。
しかし、実際に会った者はいないため意味のない攻防になっている。
「ここにセイレーンはいないと思うけど。雲を掴むようなこんな存在に混乱させられるなんてホント腹立つと思わない?」
「……」
「あ、そー。答えてくれないの?つれないわね。取り敢えず、本には一切触れないこと。あんたの爪は鋭いんだから配慮してよね」
エリーゼは本を持ってムギを置いたまま部屋を出た。
ムギはドアを開けられるようになり、塔のあちらこちらに出没するようになった。だから、エリーゼはわざとムギを一人ぼっちにさせるようなシチュエーションでドアを閉める。
そうやってわざとらしく意地悪をするのだ。
一人にさせられたムギは、そんなことはお構い無しに優雅に顔を洗った。色違いの瞳は閉じられていたが、再び開かれ何かを見据えるように一点だけを見つめていた。
それは、何かを見ているようで見ていないような眼差しだった。
しかし、突然瞳の焦点が合ったと思ったら器用にドアを開けて部屋から出て行ってしまった。
その先には、美味しそうな匂いを漂わせている厨房があった。
ーーーーー
ーーー
ー
「ライナットー!お菓子持って来たよ」
「入れ」
リオは、焼いて少し冷ましたパウンドケーキをライナットの部屋まで運んだ。ダースにちょうどよい厚さに切ってもらい、お皿に乗せて運ぶ。
紅茶は後でエリーゼが準備してくれることになっていた。
「……おまえもか」
「勝手について来ちゃって……食べられないのにね」
静かにドアを開ければ、足元をするりとムギが通った。ムギは慣れない匂いに落ち着かないのか、しきりに部屋を嗅ぎ回っている。
リオはお皿をライナットのいる書斎の机に置くと、掛けておいた布巾を取った。そこから香ばしくて甘い匂いが立ち込める。
ケーキを重ねて持っていたもう一枚のお皿に分けて、フォークもお皿の上に置いて準備を整えた。
リオはなるべく、ライナットと作ったお菓子を食べるようにしていた。それは、感想が聞きたかったためと、一緒にいる時間を多くするためだ。ライナットが普段何をしているのかはあまりわからないが、恐らく疲れることは間違いなかった。
だから、甘いものを持っていき少しでも元気を付けてもらいたいのだ。
「失礼します。レモンティーをお持ちいたしました」
「エリーゼありがとう。お菓子食べてね」
「もう食べたわよ。先回りしてこうやってお菓子に合う紅茶を選んでるんじゃない」
「そうだったの?知らなかったな。でももっと味わってもいいのに」
「私はそんな早食いじゃないわ。少し味見してるだけよ。この後ゆっくり食べるから心配ご無用」
「あはは、そっか」
エリーゼは一礼すると、滑車を転がして部屋から出て行った。それを合図にするかのように、ライナットはおもむろにケーキを食べ始める。
パウンドケーキには様々なドライフルーツが入っていて、味のアクセントになっていた。
しかしそれだけではない。
「生クリーム付けると美味しいよ」
リオはエリーゼに持ってくるように言っておいた生クリームをお皿に盛ると、それをフォークで掬ってパウンドケーキに乗せた。
それを頬張り甘さを噛み締める。
「ああ、上手そうだな」
「でしょ?」
「おまえも人が悪い」
そう言うと、ライナットはリオの口元に手を伸ばすと、彼女が声を上げる間もなく指でピッと何かを拭き取った。
それを見れば、さっき食べた生クリーム。
「ごめん付いてたね」
リオが照れ隠しに詫びると、ライナットは気にした風でもなく当たり前のようにそれをぺろりと舐めた。
それを見て顔を真っ赤にさせる。
「何赤くなっているんだ」
「だって……そんなこと普通にするから」
「誰も見ていないだろう」
「ム、ムギがいるじゃん!」
「所詮猫だろ、気にしても無駄だ」
熱くなっているリオと褪めているライナットの掛け合いを面白く感じ、ムギはひょいっとリオの膝の上に乗った。
乗った拍子に座っている椅子がギシッと音を立てた。
「気にしてるじゃん!」
「おまえがボロボロ溢すからだろ」
「溢してないよ!」
「……なんだよ」
このままでは喧嘩になるとでも思ったのか、ムギは机の上に乗って二人の間を制するように腰を降ろした。
もちろん、ライナットの方を向いてリオを護るように睨み付けながら。
「本気で喧嘩してるわけじゃない」
「ニャっ!」
「そうだよ、そんなライナットをないがしろにしなくてもいいよ。でもありがとう」
「ニャー?」
「こいつは俺と話せて楽しいだけなんだ。ただ、食べて話して楽しみたいだけ、それだけだ。俺はこいつを怒らせるつもりもないし、こいつも本気で怒っているわけじゃない。お互い、話したいことはあるのにいざとなれば話せないダメなパートナーさ」
ライナットは、だからここから降りろ、とムギを追い払うとケーキをまた食べ始めた。
そんな彼に見とれていると、ちらっと上目遣いで見られる。
「言いたいことがあるんだろう?」
「……無いよ」
「嘘付け。顔に書いてある。内容はまったくわからないがな」
「じゃあ、単刀直入に言うね」
「俺も言わせてもらいたいことがある」
切り出したのは、リオが先だった。
「ガナラとの戦争ってどうなってるの?」
「おまえの実母の出生がわかった」