形なき愛を血と称して
「これさえ」
言い換えれば、“今抜いてしまえば吸血鬼たる証は何もない”。
指に力を込める。なかなか抜けない牙。
痛みに耐えかね、力を抜いてしまった。
「リヒルトさん……」
不甲斐ない自分が情けなく、この場にいない人に謝罪する。
牙を抜くのを再開しなかったのは、抜いたところで吸血衝動がなくなる保証がないことに気付いたからだった。
リヒルトを傷つけたくないならば、他の人間の血液を飲めばいい。
ない頭なりに考え出したことは、悲惨な結果を出してしまった。
リヒルトを怒らせてしまった。
トトに向かって怒鳴ったり、叩いたりする真似はしない。
むしろ、冷静に、静かに。彼は包丁を持った。
血が噴き出すさまは、一度も見たことがない光景。意図せず切ったわけではなく、“そうなるように切った”のは、手首の動脈。包丁をスライドさせた後には、叩きつけるように刃先を打ちつけとーー
トトが絶叫し、止めたところで、彼は包丁を離す。
離したあとに、トトを抱き、耳元で囁くのだ。
「君を愛しているからこそ、こんなことでも出来るんだよ」
狂気の沙汰も躊躇わずに出来る。
だから、“いつでもやれる”。
「……ひっく」
思い出しただけでも、震えが止まらない。
より、リヒルトの血が飲みたくないと言えなくなってしまった。
些細な反抗では、リヒルトが自傷するのを止められない。かと言って、大きく反抗すれば、より酷い結果を招いてしまう。
「私が、間違っているの……か、な」
大切な人に傷を作ってまで、生きなきゃいけない人種である自分が、そんなことを言うことが全て間違っているのか。
考えている内に、寝室の扉が開いた。
見れば、ラズがこちらを見ている。
「ラズぅ……」
トトの友達。言葉は通じなくても、トトにとっては良き友人だった。
慰めてもらうように、ラズに抱きつくがーーふと、ラズの口が濡れているのに気付いた。
茶の毛で分かりにくかったが、口周りが濡れ、黒くなっている。
指先で拭って、その色が黒でないことを知った。
「ら、ず?」
トトの白い指先に付着したのは、赤。
夕日に染まった部屋よりも深い赤。
それが、ラズの口に。歯に。びっしりと。
「な、なんで、ラズ!ラズ!」
何かを貪った口は鳴くことなく、トトに背を向けた。ただ、一度振り返り、また進む。
ついて来いの表れだが、それがなくともトトはラズを追った。
「ま、さか……リヒルトさんに何か!」
あったのではないかと、ラズのいる二階北側の部屋まで走った。
扉を開ける。そこには、見た瞬間に腰を抜かしてしまう光景が広がっていた。