【短編】紅蓮=その愛のかたち
ナホミは大きな破片を拾うと、手首に当ててみた。


このまま右に少し引けば私は死ねる。


それは果てしなく甘美な誘惑に思えた。


私がどれだけ訴えても一向に理解しようとすらしない彼に苦しみの大きさの程を見せつけてやりたいと思った。


屍を見て、彼はどんな顔をするだろうか。


前彼の死が今もナホミの心に深くこびりついて離れないように、彼も一生私のことを心に刻みつけて生きていかねばならないだろう。


彼の心を独占できるならば、死は恐れるよりも力強い友人である。


なによりナホミの心を慰めてくれるであろう。
 

遠くで音がする。


「もうモーツァルトは終わってしまったのだろうか。」


意識の淵がぼんやりとしている。


「目、醒めたか?」


彼の声だ。


何時の間に帰って来たのだろう。


繋がらない記憶を少しずつ自分にたぐり寄せてみた。


あぁ、そうだ。私はあのまま風呂場で手首を切ったのだ。


でも、やはり彼は来てくれたではないか。


こうして傍にいてくれている。


狭い救急車のベッドの横で彼が覆い被さるように、ナホミの顔をのぞき込んでいる。


心配そうな顔をしているのを見取ると、ナホミは安息を感じていた。


彼の眸の奥に、怯えと戸惑いがあるのには、気づいていない。


ナホミは、何か言いたげに酸素マスクの奥の唇を少し動かした。


そして、管を繋げられている右手をのろのろと伸ばすと、ベッドに置かれたカナメの指に自分の長い指をねっとりと絡ませた。


救急車の音が変わり、カーブにさしかかると、窓越しに紅い信号機の色が車内に溢れる。


ナホミの濡れた目がその光を受けて、紅くキラキラと輝いた。


「あなたは・・・。あなただけは、逃がさない・・・」



   了
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