最後の意地
◆
千寿子が壁を見上げれば、時計は午前二時を回ろうとしていた。時計を確認したついでに、左手の薬指にはめた指輪をくるりと回す。
「あれ、高橋君はもう帰ったわけ? 終電ないからって、ここに来たのに」
トイレから戻ってきた宏美が、一つ空席になったカウンターに目をやる。つい先ほどまでそこに座っていた男の姿は、たった数分の間に消えていた。
「うちで朝までねばるなよ」
カウンターの中にいる陽平が苦笑いで、宏美の前に水のグラスを置いた。
「いいじゃん、終電なくなったら、がらがらになるくせに。よく経営続いてるよね」
「お前らが来なかったら閉めてるっての。だいたい、うちの閉店一時なんだぞ?」
「あれ、そうだっけ。いつ来ても入れるから忘れてたわぁ」
三人が今いるのは、陽平が経営している小さなバーだ。彼が持っているビルの地下一階にあるから、半ば道楽のようなものらしい。
午前一時になるのと同時に店のプレートは「CLOSE」に変更されて、残っているのは常連というよりは学生時代からの悪友だ。
陽平の背後には、ずらりと並んだボトル。千寿子はボトルに視線を走らせる。この店に通うようになって十年くらいはたっているはずだが、飲んだことのない酒の方が圧倒的に多い。
「信じられない。今日は、千寿子の婚約祝いだっていうのに……ねぇ?」
不満顔で、宏美は水のグラスを口に運ぶ。千寿子は、左手薬指の指輪をもう一度回した。
「そういや、見合いしたんだっけ? 相手どんなやつ?」
「ん? ナイショ。どうせ、結婚式で見られるんだからいいじゃない」
できれば、その点には触れて欲しくなかった。謎めいた微笑に見えればいいんだけどな、なんて思いながら口角を上げて見せる。
「何だよ、ずいぶんつれないんだなぁ」
「あんた、何かしたんじゃないの? 私なんて、写真見せてもらったしー、実物にも会わせてもらったしー」
自慢そうに胸をはる宏美の声音には、酔いが滲んでいる。
「お前飲み過ぎ。もうちょい水飲め。俺の店で吐いたらぶん殴るからな」
「へーい」
「……まったく」
水を注ぎ足してやりながら、陽平はため息をついた。よく考えれば今日は――正確には昨日――の十九時から何軒も店を梯子して飲み回っていたのだから、ある程度会話が成立しているのが奇跡みたいなものだ。
最初は十人近く集まっていたのが、いつの間にか一人減り、二人減りで最終的にこの店にたどり着いたのは四人。一人終電で帰って、高橋がタクシーをつかまえると出て行ったから、残っているのは千寿子と宏美だけだ。
ありがたい、と素直に千寿子は思う。大学に入ったのが十八。それから三十六になる今まで付き合いが途切れなかっただけではなくて、祝い事があればこうやって集まってくれるのだから。
「あ、そうだ。お土産渡すの忘れてた」
ふいにバッグの口を開けて中をかき回し始めたかと思うと、宏美は小さな袋を取り出した。
「あれ、高橋君はもう帰ったわけ? 終電ないからって、ここに来たのに」
トイレから戻ってきた宏美が、一つ空席になったカウンターに目をやる。つい先ほどまでそこに座っていた男の姿は、たった数分の間に消えていた。
「うちで朝までねばるなよ」
カウンターの中にいる陽平が苦笑いで、宏美の前に水のグラスを置いた。
「いいじゃん、終電なくなったら、がらがらになるくせに。よく経営続いてるよね」
「お前らが来なかったら閉めてるっての。だいたい、うちの閉店一時なんだぞ?」
「あれ、そうだっけ。いつ来ても入れるから忘れてたわぁ」
三人が今いるのは、陽平が経営している小さなバーだ。彼が持っているビルの地下一階にあるから、半ば道楽のようなものらしい。
午前一時になるのと同時に店のプレートは「CLOSE」に変更されて、残っているのは常連というよりは学生時代からの悪友だ。
陽平の背後には、ずらりと並んだボトル。千寿子はボトルに視線を走らせる。この店に通うようになって十年くらいはたっているはずだが、飲んだことのない酒の方が圧倒的に多い。
「信じられない。今日は、千寿子の婚約祝いだっていうのに……ねぇ?」
不満顔で、宏美は水のグラスを口に運ぶ。千寿子は、左手薬指の指輪をもう一度回した。
「そういや、見合いしたんだっけ? 相手どんなやつ?」
「ん? ナイショ。どうせ、結婚式で見られるんだからいいじゃない」
できれば、その点には触れて欲しくなかった。謎めいた微笑に見えればいいんだけどな、なんて思いながら口角を上げて見せる。
「何だよ、ずいぶんつれないんだなぁ」
「あんた、何かしたんじゃないの? 私なんて、写真見せてもらったしー、実物にも会わせてもらったしー」
自慢そうに胸をはる宏美の声音には、酔いが滲んでいる。
「お前飲み過ぎ。もうちょい水飲め。俺の店で吐いたらぶん殴るからな」
「へーい」
「……まったく」
水を注ぎ足してやりながら、陽平はため息をついた。よく考えれば今日は――正確には昨日――の十九時から何軒も店を梯子して飲み回っていたのだから、ある程度会話が成立しているのが奇跡みたいなものだ。
最初は十人近く集まっていたのが、いつの間にか一人減り、二人減りで最終的にこの店にたどり着いたのは四人。一人終電で帰って、高橋がタクシーをつかまえると出て行ったから、残っているのは千寿子と宏美だけだ。
ありがたい、と素直に千寿子は思う。大学に入ったのが十八。それから三十六になる今まで付き合いが途切れなかっただけではなくて、祝い事があればこうやって集まってくれるのだから。
「あ、そうだ。お土産渡すの忘れてた」
ふいにバッグの口を開けて中をかき回し始めたかと思うと、宏美は小さな袋を取り出した。