ガラスの靴じゃないけれど
でも今では聞き慣れない工具の名前を言われても、手術中の助手のようにさっと彼の手の平にそれを乗せることができるようになっていた。
素人の私の手伝いを彼が拒まない理由は、靴工房・シエナの取り壊しが迫っているため。
予約の靴を、一足でも多く完成させようと必死なのだ。
真剣な表情で靴作りに励む彼の横顔を見つめながら過ごす、真夏の昼下がり。
この穏やかな時間が、あと少しで消えてしまうことに心を痛めた時、木目調のドアが開いた。
彼が「いらっしゃい」と挨拶をするよりも早く声を上げたのは、見憶えのある人物だった。
「ああ!暑い!あら?響ったら、いつの間にこんなに可愛い女の子を助手にしたの?」
正確に言うと、見憶えがあるのは、彼のことを名前で呼ぶ人物の髪の毛。
蜂蜜のように艶やかに光るライトブラウンの長い髪の毛を見たのは、靴工房・シエナを覗き見した時。
山本時計店に集まったお年寄りたちは、彼女のことをマダムレッドと呼んでいた。
「あ?別に助手ってわけじゃねえよ」
「じゃあ、彼女?今回は随分と若い娘(コ)に手を出したわね」
「か、彼女じゃねえよ!」
エアコンの風に当たりながら呆れた様子を見せる彼女に向かって、彼は即座に否定をした。