ガラスの靴じゃないけれど


けれど言い返す言葉など見つからない私は、意地悪な彼に向かって黙ったまま頷くことしかできなかった。

すると、私の腰を支えていた彼の手に力がこもる。

「もう少しだけ。いいだろ?」

耳元で甘く囁かれた私の耳たぶに走るのは、甘い刺激。

痺れるようなその刺激は耳たぶから額、瞼、頬へと移動していき、最終的に行き着いた先は唇だった。

二度目の口づけを交わした彼と私は、額を合わせながら微笑み合う。

「つい、欲張りになった。悪かったな」

嬉しいような、恥ずかしいような彼の言葉を聞いた私は、喜びを噛みしめながら首を横に振った。

家の玄関を後にした時は、オレンジ色の夕焼けが辺りを照らしていた。

でも今、私たちを包み込むのは群青色の暗闇。

このまま私をさらって欲しいと密かに願っていると、身体から彼の手が力なく離れていった。

「きっとオマエの帰りを家族は待っているんだろうな。引き留めて悪かった」

「いいえ」

「みなさんによろしく伝えてくれ。じゃあな」

「はい」

生成りのシャツの裾を掴んで『帰らないで』と、言いそうになってしまった私は慌てて口をつぐむ。

帰り際に駄々をこねて、彼を困らせることはしたくない。

だから私は門の外で彼の背中が見えなくなるまで、作り笑顔を浮かべて手を振り続けたのだった。


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