真夜中の猫
夜の桜
帰ってからの寛美は忙しかった。
まず、就職先を探したがこれは簡単に見つかった。
甲子園の近くにある大学病院が求人募集していた。
今より待遇はかなり良かったがそれだけ過酷なのだろうと予測がついたが、自分をためしたい気持ちもあった。
試験は面接のみで形だけのようなものと推察出来た。
次は退職願だった。就職して1年も経たずに辞めるなんて、今の病院になんの不満もないがまさに一身上の身勝手だ。
非難されるのは承知の上で上司に退職願を提出した。
考え直すよう説得してくれたが、寛美は取り下げなかった。これで年度末の退職が確定した。
面接試験には400人近い受験生が来たが7人のグループ面接で一言反対意見を述べて合格した。
そして新しい生活の足がかりが出来た。
引っ越しの片付けをしていると隣りの早川がやって来た。
早川とは職場も同じで同期として仲良くやってきた。
「本当に行っちゃうんだね。あたしはいけなかったよ。」
「帰ってこないっていうから行くしかないもん。一緒に今まで話し聞いてくれてありがと。」
「怖くない?」
「知らない街に行くのは怖いけど、なれるまで頑張る。」
その夜は早川と話し込んだ。
一年で辞めてしまう寛美に冷たくあたる人もいたが、早川はいつも笑顔で話してくれた。
そんな大切なものを置いて行くのは、正直怖かった。
しかし後戻りはできなかった。
自分で決めた事だから甘えられなかった。
自分から自分の世界を壊して何処かに彷徨い歩いて行く気分だった。
だが、亮との生活を選んだ寛美にはこうするしかなかった。
出発の朝、空港までは母が送ってくれた。
寛美の決めた事には反対していたが身を案じてくれるのも母だった。
空港の近くには母方の実家があったので久しぶりによってみた。
「本当に大丈夫かい?いつでも帰ってきていいんよ。」
「大丈夫よ、おばあちゃん。何回もいってるもん。アキラ君だって東京で頑張ってんでしよ?そろそろ時間だから行くね。」
腰の曲がった祖母が必死で腰を伸ばし手を振ってくれた。
車の中は静かだった。暖かな日差しとキラキラと光る波静かな海が眩しかった。
出発ロビーで最後に母にありがとうと言った。
返事はなかった。
チケットを通して振り返ると下りのエスカレーターに向かう母の背中が見えた。
引っ越しシーズンで荷物の到着が一日遅れた。
病院の事務室に行き借り上げマンションの地図とカギをもらった。
思ったより中心部からは離れた郊外で安心した。
なにより大好きな甲子園球場を見上げて歩くのは心が弾んだ。
寛美のマンションは住宅街の一角にあった。
入り口に動物病院があって寛美の部屋はその奥だった。
古い間取りで漆喰の壁が昭和を感じさせた。
日当たりも悪く、唯一光りが差し込むのは奥のテラスだけだった。
間取りにはテラスと書いてあったが、板張りの縁側みたいなものだった。
無駄に広い3LDKは手荷物しかない寛美を家主として歓迎してくれていないようだった。
犬達の鳴き声が聞こえてきた。
寛美は犬が苦手だった。
外出しようにも、まずあの犬達の側を通らないといけないし、何より疲れていた。
部屋の中は冷気が漂い、仕方なく持っていたストールを頭からかぶり、少しでも暖かいテラスで横になった。
寛美は心細くなった。
急に自分のしたことがとんでもないことだと冷静に見つめられた。
どうしてこんな寒いところで震えていなくちゃいけないんだろう。
悲しくなって涙がこぼれ、何時の間にか眠りに落ちてしまった。
何時間経っただろう。
寒さで目が覚めた。
涙はすっかり乾いていた。
犬達の鳴き声があいかわらず聞こえる。
寛美にだって分かっていた。
こんな無茶なことをするなんて。
でも、あのままではいられなかった。
亮の世界が変わっていくのを知らないままでいられなかった。
後悔している場合でもなかった。
もう、事は始まっている。
おばあちゃんが言ったようなことはできない。
後戻りは出来ないのだ。
母の背中がそう言っていた。
夜になってお腹も空いたので外にでてみた。
犬達は夜は檻にいれられるので静かだった。
亮に電話をしてみた。
「今どこ?」
「もう帰ってきてる」
「私も着いたよ。」
「今日だったっけ?」
亮には悪気はなく寛美をイラつかせる時があった。
「近いんだよね?」
「今から行くよ。」
四月の夜はまだ肌寒くコートが手放せなかった。
住宅街の歩道をゆっくりと歩いた。
風が強く雲は流され、下弦の月が見え隠れしていた。
向こうの方から亮が走ってくるのが見えた。
いろんな想いをため息と共に吐き出して、大きく手を振った。
近くに公園があり桜が満開を迎えていた。
風が吹くたびに花びらが舞い、公園の街灯がそれを照らし綺麗だった。
もう時刻は真夜中だった。2人はいろんな話をした。
体を寄せ合って寒さをしのいだ。
「本当に来てくれてありがとう。」
「うん。頑張らないとね」
早川や母の事は亮には言わなかった。
この胸にある不安はいつかなんでもない当たり前の事に変わる。そう願った。
桜の木が風に吹かれざわめいた。
寛美の髪も乱れ顔を覆った。
月明かりにキラリと光るものが頬を伝った。
亮には気づかれないように、そっと拭った。
まず、就職先を探したがこれは簡単に見つかった。
甲子園の近くにある大学病院が求人募集していた。
今より待遇はかなり良かったがそれだけ過酷なのだろうと予測がついたが、自分をためしたい気持ちもあった。
試験は面接のみで形だけのようなものと推察出来た。
次は退職願だった。就職して1年も経たずに辞めるなんて、今の病院になんの不満もないがまさに一身上の身勝手だ。
非難されるのは承知の上で上司に退職願を提出した。
考え直すよう説得してくれたが、寛美は取り下げなかった。これで年度末の退職が確定した。
面接試験には400人近い受験生が来たが7人のグループ面接で一言反対意見を述べて合格した。
そして新しい生活の足がかりが出来た。
引っ越しの片付けをしていると隣りの早川がやって来た。
早川とは職場も同じで同期として仲良くやってきた。
「本当に行っちゃうんだね。あたしはいけなかったよ。」
「帰ってこないっていうから行くしかないもん。一緒に今まで話し聞いてくれてありがと。」
「怖くない?」
「知らない街に行くのは怖いけど、なれるまで頑張る。」
その夜は早川と話し込んだ。
一年で辞めてしまう寛美に冷たくあたる人もいたが、早川はいつも笑顔で話してくれた。
そんな大切なものを置いて行くのは、正直怖かった。
しかし後戻りはできなかった。
自分で決めた事だから甘えられなかった。
自分から自分の世界を壊して何処かに彷徨い歩いて行く気分だった。
だが、亮との生活を選んだ寛美にはこうするしかなかった。
出発の朝、空港までは母が送ってくれた。
寛美の決めた事には反対していたが身を案じてくれるのも母だった。
空港の近くには母方の実家があったので久しぶりによってみた。
「本当に大丈夫かい?いつでも帰ってきていいんよ。」
「大丈夫よ、おばあちゃん。何回もいってるもん。アキラ君だって東京で頑張ってんでしよ?そろそろ時間だから行くね。」
腰の曲がった祖母が必死で腰を伸ばし手を振ってくれた。
車の中は静かだった。暖かな日差しとキラキラと光る波静かな海が眩しかった。
出発ロビーで最後に母にありがとうと言った。
返事はなかった。
チケットを通して振り返ると下りのエスカレーターに向かう母の背中が見えた。
引っ越しシーズンで荷物の到着が一日遅れた。
病院の事務室に行き借り上げマンションの地図とカギをもらった。
思ったより中心部からは離れた郊外で安心した。
なにより大好きな甲子園球場を見上げて歩くのは心が弾んだ。
寛美のマンションは住宅街の一角にあった。
入り口に動物病院があって寛美の部屋はその奥だった。
古い間取りで漆喰の壁が昭和を感じさせた。
日当たりも悪く、唯一光りが差し込むのは奥のテラスだけだった。
間取りにはテラスと書いてあったが、板張りの縁側みたいなものだった。
無駄に広い3LDKは手荷物しかない寛美を家主として歓迎してくれていないようだった。
犬達の鳴き声が聞こえてきた。
寛美は犬が苦手だった。
外出しようにも、まずあの犬達の側を通らないといけないし、何より疲れていた。
部屋の中は冷気が漂い、仕方なく持っていたストールを頭からかぶり、少しでも暖かいテラスで横になった。
寛美は心細くなった。
急に自分のしたことがとんでもないことだと冷静に見つめられた。
どうしてこんな寒いところで震えていなくちゃいけないんだろう。
悲しくなって涙がこぼれ、何時の間にか眠りに落ちてしまった。
何時間経っただろう。
寒さで目が覚めた。
涙はすっかり乾いていた。
犬達の鳴き声があいかわらず聞こえる。
寛美にだって分かっていた。
こんな無茶なことをするなんて。
でも、あのままではいられなかった。
亮の世界が変わっていくのを知らないままでいられなかった。
後悔している場合でもなかった。
もう、事は始まっている。
おばあちゃんが言ったようなことはできない。
後戻りは出来ないのだ。
母の背中がそう言っていた。
夜になってお腹も空いたので外にでてみた。
犬達は夜は檻にいれられるので静かだった。
亮に電話をしてみた。
「今どこ?」
「もう帰ってきてる」
「私も着いたよ。」
「今日だったっけ?」
亮には悪気はなく寛美をイラつかせる時があった。
「近いんだよね?」
「今から行くよ。」
四月の夜はまだ肌寒くコートが手放せなかった。
住宅街の歩道をゆっくりと歩いた。
風が強く雲は流され、下弦の月が見え隠れしていた。
向こうの方から亮が走ってくるのが見えた。
いろんな想いをため息と共に吐き出して、大きく手を振った。
近くに公園があり桜が満開を迎えていた。
風が吹くたびに花びらが舞い、公園の街灯がそれを照らし綺麗だった。
もう時刻は真夜中だった。2人はいろんな話をした。
体を寄せ合って寒さをしのいだ。
「本当に来てくれてありがとう。」
「うん。頑張らないとね」
早川や母の事は亮には言わなかった。
この胸にある不安はいつかなんでもない当たり前の事に変わる。そう願った。
桜の木が風に吹かれざわめいた。
寛美の髪も乱れ顔を覆った。
月明かりにキラリと光るものが頬を伝った。
亮には気づかれないように、そっと拭った。