真夜中の猫

夜明けの海

寛美の毎日は一変した。
朝は早く7時前には家を出て駅まで歩き、電車に二駅揺られるとすぐそばに病院があった。しかし、中は迷路のように長く、更衣室から病棟までは、朝のまだ暗くて長い廊下を何本も通らないといけなかった。
寛美は外科病棟に配属された。去年と同じ外科に配慮されたのだ。
しかし、前の病院の外科とは大違いで毎日が新しいことの連続だった。
そして、そこはストレスの掃き溜めで先輩たちは暇を見つけては休憩室で一服し、一切の匂いをかき消してまた戦場に繰り出し患者へ禁煙の必要性を説明した。
寛美をたじろかせたものがもうひとつあった。
関西弁だった。早口でまくしたてるように話す患者はとても具合が悪いようにはみえなかったし、寛美ののんびりとした話し方は相手を苛立たせているようだった。
それでも間違いのないように業務をこなし、後は記録をして終わりという頃には夜8時をまわっていた。記録にも時間がかかり、そのまま深夜の業務が始まることもよくあった。
その分休みの日には神戸の街へ行き、買いもので日頃の憂さを晴らし、浴衣や水着を買って夏に遊ぶ用意を完璧にしていた。
亮とは日曜日に寛美の休みが合えばデートした。
近くのスーパーで食材を買って二人で料理したり、プールに行ったり、人ごみの中をかき分け花火を見に行ったりした。亮と寛美の邪魔をするものは何もなく、自由に2人の時間を過ごすことが出来た。
梅雨の最中、2人で京都に日帰りで行く事になった。
京都駅はモダンな佇まいで初夏の涼しい風をまとっていた。
亮と寛美にとって初めての旅行だった。
四条通りを抜けて八坂神社にでた。2人ともガイドマップなんてものは持ってなく、行き当たりばったりの旅だった。たしか、縁結びの神様と聞いたこともあるし、歩き疲れた足を休めたかった。荘厳な門をくぐり境内をゆっくり散策していた。
「仕事大変?」
いつもの唐突な質問だった。
「まあね。雰囲気になれるまではね。」
しばらくの沈黙の後、亮がまた突然言い出した。
「俺、仕事8月で辞める。」
「えっ?」
「一緒に帰ろうか。」
確かに仕事は大変だった。でも休みの日には亮と買い物に行ったり、お気に入りのスーパーが近くにあって、犬達のことさえなければ寛美の生活はやっと落ち着いてきたところだった。
しかし確かに亮はみるみる痩せていき、仕事のストレスと過酷さが予想出来た。
寛美は悩んだ。
母の背中を思い出していた。
こんな中途半端なことしていいのか。

亮は8月に会社を辞め、住んでいた寮を出て寛美の部屋に住むことになった。
亮がいれば犬達はおとなしかったので助かった。
寛美の答えはでていた。亮から帰ろうと言われれば帰るしかなかった。亮の居ないこの地に留まる理由などなかった。亮が帰ると言った時は嬉しかった。何もかもが元どおりに戻る気がした。でも、なにかスッキリしなかった。
亮を追いかけてきて寛美なりに頑張ってきた。それが全て無駄になること、応援してくれた人達を裏切ることになること。何を言われても貫くしかなかった。精一杯の感謝の気持ちを胸に、寛美は退職願をだした。
弁解の言葉は封印した。身勝手なバカな女と思われてもよかった。自分の馬鹿さ加減は自分が1番よく分かっていた。

2人は船で帰ることにした。出港は夕方で到着は早朝だった。
9月の夕陽はジリジリと船を照りつけ、海の青に溶けてようやく優しさを取り戻すかのようだった。
2人は船に乗り込み船室に入った。部屋から見えるのは海ばかりで揺れる波をみていると、バカな自分が嫌になってカーテンをしめた。
出港の汽笛が鳴った。
あんなに来たがっていたこの地には、もう二度とこないだろう。身勝手な自分を許すことはできない。寛美は心に誓った。
船からの景色は美しかった。だんだんと遠ざかる港とその奥に見える街並みは夕日に照らされ一面オレンジ色をしていた。
明石海峡大橋をくぐる頃には日は落ち、海風が冷たく寛美をつつんだ。
船室に戻るといつもと同じように亮がいた。寛美は失った心の隙間を埋めるように亮に抱きついた。
2人でいられることを考えた。寛美にとって大切なもの。それから、寝ついた亮の背中に抱きついて寛美も眠りに着いた。

船内放送で到着が近いことに気づき目を覚ました。
朝の6時。2人は確かに始まりの場所に降り立った。
海は今日も波静かに穏やかに迎えてくれた。朝の空気が寛美を浄化してくれるようだった。
これからまた2人でやっていく。寛美は前をしっかり見つめて過ちを繰り返さないと心に強く思った。
ふるさとは優しく大らかに迎え入れてくれた。

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