真夜中の猫
迷い猫

音のない部屋

寛美は看護学校を卒業し、近くの大学病院に就職した。そしてまた、敷地内にある寮に入った。寮といってもマンションタイプの寮でもちろん門限もなかった。
ワンルームの部屋にはベッドとテレビを置き自炊することも出来、不自由はなかった。
仕事が終わると部屋に戻りひとりの時間がやってきた。今までいた世界には何かの音があった。でもここは寛美がつけないと鳴らないCDやテレビしかなかった。音のない世界で寛美はベッドに横たわり亮のことを考えた。
他に何もしたくなかった。出来るだけ楽しかったことを思い出した。だが、最後にはかならず別れのキスを思い出してしまった。そして涙で流してしまうと、ようやく起き上がることができた。
寛美は母親から車をもらい、よくドライブに出かけた。運転は好きだった。行きたいところにいける自由さが心地よかった。よく行くのは温泉やレンタルショップ、休みがあえば友達の家に出かけた。
どこに行っても何をしても、亮のことがまとわりついて離れなかった。というより、亮のいた感触を探していたのかもしれなかった。

隣の部屋には同期の早川が住んでいた。姉はモデルをしているらしく、スタイルもいいし可愛い子だった。彼氏とは遠距離恋愛で夜になると電話で長い時間話す声が聞こえた。それすらもできない寛美にはつらく、聞こえてくるといつもベランダに出て空をみた。ベランダの向こうは大きなさてつの木があり四月の涼しい風が葉を揺らしていた。そのざわめきに慰められた。
寛美も亮に電話できないわけではなかった。でももしかしたら番号が変わってるかもしれない、つながらなかった時のショックが怖かった。
かけても何を話したらいいのか、分からなかった。
受話器を置いたまま何度か番号をおした。音のない部屋にピピピ…とひびいた。
亮に会いたくてたまらなかった。
どうして最後にあんなことをしたのか聞きたかった。
別れたのにあんなキスをして、友達にでもできるってこと?堂々巡りが続いた。
寛美の知らない世界にいる亮はとても遠い存在だった。

その日も仕事を終え、部屋を明かりと音で満たした。食事を簡単に済ませるとベッドに横たわり意味のわからないテレビを眺めていた。頭が空っぽになると亮のことを考えた。
電話の方に目をやるが、鳴る気配はしない。時を止めたかのように、沈黙していた。

いつものように受話器を置いたまま亮の電話番号を押して遊んでいた。いつもと違ったのに気づいた時には遅かった。
「はい、桐谷ですが。」
うっかりスピーカーホンにしていた。
スピーカーからあの懐かしい亮の声が聞こえた。色あせた記憶達がみるみるよみがえってきた。忘れそうになっていたあの声や優しい話し方、寛美を包み込んでくれた大きな腕。
寛美は慌てて受話器をとった。
「あ、あの、私、寛美です。」
沈黙のあと穏やかな声がかえってきた。
「どうしたの?」
「いや、なんとなく、なにしてるかなって…。」
また沈黙がきた。すべてを見通されている気がして恥ずかしかった。
「まだ仕事。また今度かけ直してもいい?」
「あ、ごめんね。じゃあまた。」
「じゃあ。」
寛美はしばらく受話器を持ったまま呆然としていた。部屋にはツーツーと電話の途切れた音が響いていた。


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