てのひらの温度
「俺たぶんそのうち帰る。嫌だけど、帰る。帰ってもなんにも変わらないだろうし、きっと俺は邪魔なままだと思うけど。俺は俺だし。あの家で暮らしてガッコ行ってんのが俺だってわかったからさ」
起き上がって隣の紺の顔を正面から見つめる。すっきりと闇に染まっているなか、瞳だけは月の光を受けてぼんやりと浮かんでいる。
「有り金ぜーんぶ使うまで旅してさ、一文無しになったら帰ろう」
夜が揺れている。
へらへら笑う紺の顔は今この刹那、なによりも強く、生きていた。
「咏」
呼ばれた名前は紺色に変わり、こっくりと影を深めている。
不意に紺が私の左手を握った。かさついた右手はほんのり熱を持って、指先に残った砂の粒でさえ温めてゆく。
私は、いつか何かを選べるのだろうか。紺が自分自身であるための道を選んだように、行く先を決められるのだろうか。
頭の奥底で軋んでいた小さな声は、いつの間にか止んでいる。
わたしはここにいる。わたしはわたしがひつようなのだから。
代わりに囁くような生まれたての声が静かに鳴っている。
てのひらの温度を噛み締めながら、心臓がぐんと跳ねたのがわかった。
fin.