10円玉、消えた
そして夏。
平穏な『らあめん堂』はまだ続いていた。

商店街の人々は首を傾げる。
煙草屋と靴屋以外は、この夏までにまたひと悶着があるだろう、と予想していたからだ。
中には“一週間”なんてのもあったくらいだ。

ただこの時期、商店街の話題はもっぱらプロ野球。
これはこの商店街に限ったわけではなく、日本全土至る所でその話題がもちきりであった。

なんたって通算本塁打数の世界記録を目指す王貞治が、夏場に入って凄まじいペースで本塁打を量産。
その歴史的瞬間がいよいよ現実味を帯び、日本国中が大フィーバーといった有り様なのだ。



「王がまた昨日も打ったな。しかも2本」

「すげえよな、王は」

「今月中に達成しちまうんじゃねえの」

「できればエース級のピッチャーから打ってほしいよな」

「打たれるピッチャーは気の毒によ。永久に名前が残っちまうからな」

「ところで昨日巨人は勝ったんだっけ?」

「あれ?どうだっけ?」

「まあどっちでもいいや。いまは王が打ちゃそれで充分だ」

そんなわけでラーメン屋夫婦バトルの件は、知らぬ間に殆ど話題に登らなくなった。
夫婦喧嘩と王のホームランではそれも当然である。



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