甘い唇は何を囁くか
仕立ての良いスーツを着た気品のある老人と、その老人の付き人という風情のまだ若い…30代ほどの男の姿が視界に入った。

杖をついた老人はまるで眠ってでもいるかのように顔を石畳に落としている。

傍らの男が、周囲を確かめるように顔をゆっくりとこちらに向けた。

男と視線がぶつかる。

(…なんだ?)

男はじっとシスカを見つめて、その視線を逸らすと老人の耳元で何かを囁く。

老人はこくりと小さく頷いて、重たそうに顔を上げる。

それは、まるでシスカのことを話しているかのようであった。

だが、何故―?

その疑問を解く為に話しかけるかどうか、ひとつ思い悩んでやめた。

何か面倒な事に巻き込まれるのは煩わしい。

そうして、視界の端で動くそのふたつの気配を横目に通り過ぎて行った。

「…ククイ。」

若い男は、自分の名を口にする老人の声で我に返った。

「はい、バンジェス様。」

ククイは老人の声を聞き取る為、その礼を取るために石畳に膝をついた。

「見たか、あれを。」

「もちろん、確かにこの目で確かめました。あれが…。」

「ああ…。このような所にいたとは―。」

バンジェスは深く頷いてククイに背を向け歩き出した。

ククイはその後を追いバンジェスの言いかけた言葉に続ける。

「匂いを頼りに散々、迷わされましたからね。」

「ああ、奴はひとところにじっとしていることを嫌うようだな。」

「ええ。ですがようやく、ご報告できそうですね。」

通りを抜けると、そこには黒塗りの大きな車が待ち構えていた。

ククイはサッと車の横に駆け寄ると、先に扉を開いてバンジェスを車内に促すよう頭を下げた。

車の中には、既にひとりの女がいた。

女は老女である。

蝋梅色の長い髪に、しなやかな美しい皺の入ったバンジェス同様、その姿からは品の良さが染み出している。

「見つけたよ。」

バンジェスが言うと、女はええと頷いた。

「分かってるわ。」

扉を閉めると、ククイは運転席に向かった。

< 39 / 280 >

この作品をシェア

pagetop