甘い唇は何を囁くか
バンジェス、そう名乗った老人は、シスカが目を丸くしているのを見遣り、グラスをテーブルに置くと微笑んで言った。

「何を驚く?まさか、ヴァンパイアは自分ひとりだと思っていたわけでもあるまい。」

それはそうだ。

自分ひとりだと―、そう思っていたわけではない。

ただ、数百年これまで一度も他のヴァンパイアとは逢わなかった…逢った事がなかったのだ。

それが、突然仲間だと名乗る老人と男が現れたら、…驚かないわけがない。

「基本的に我々はお互いに不可侵だからね。」

匂いを辿って、極力仲間の傍には近寄らないようにする、本能でね、と続けて再びグラスを取った。

「じゃあ、あんたは何故ここに…?」

その言葉には当然な問い返しをして、シスカは老人の顔を覗いた。

「…。」

何も答えぬまま、バンジェスはゆっくりと目蓋を落とした。

「人間の耳に、我々の会話は滑稽に映るでしょうね、どこか静かな所に場所を移しましょうか。」

バンジェスの様子に無言の頷きを返して、ククイが言った。

「そうしようか、良いかねシスカ君。」

何やら含んでいることがありそうだと思った。

この老人―、バンジェスが信用できる男だという確信はない。

それに、バンジェスにつき従うこの男…ククイもどういう者なのか…。

匂いを辿り、本能で出逢いを避ける、それなのにどうしてシスカの前に現れたのか―。

「良いだろう。」

カタン、立ち上がると椅子が小さく音を鳴らした。
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