甘い唇は何を囁くか
石畳の道を歩いていきながら、街路灯の明かりを頼りに暗がりの路地へと入っていく。

ククイが先頭を歩き、その後ろをバンジェス、そして少し離れてシスカが着いていく。

そのうち、バンジェスが口を開いた。

「私がはじめて女性に恋したのは、16歳の時だった。」

シスカは老人の唐突な身の上話に何も答えることができなかった。

だが、シスカの反応などおかまいなしにバンジェスは振り返りもせず話を続ける。

「その時はまだ…もちろん人間だった。彼女は炭鉱で働く父親と二人暮らしをしている貧しい家の娘だったんだが、それは綺麗な顔立ちをしていた。」

人間だった頃―、その頃の記憶はシスカの中にも残されている。

はじめて恋したのは同じく16歳のときだ。

家庭教師に来ていた英語の教師の娘で、フランシスカといった、金の髪が美しい女だった。

「自分がはじめて性行為をした時の興奮は未だ忘れることはできない。」

シスカは少しの間を置いて、バンジェスの言葉の真意を探ろうと問い返した。

「人間だった時の事など、遠すぎる記憶だ。辿るのも難しい。そんな事を言いに俺の前に現れたわけではないのだろう?」

バンジェスはピタリと歩みを止めると、そっと視線を斜め上に向けた。

そこにはカフェの看板が出ている。

見ると小さな明かりが燈っている。

「バンジェス様、こちらへ。」

先を行っていたククイが、店の中から顔を出して招いた。

「どうやら着いたようだ。」

背を向けたまま店の中へと入っていく。

シスカは、ため息を零してその後に続いた。
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