甘い唇は何を囁くか
違う…?

頭の中でバンジェスの言葉を繰り返し小さく首を傾げた。

「意味が分からない―、というところだろうね。分かるよ。”私も”そうだった。」

カップを手に取ると、バンジェスはその中身を飲み干して続けた。

「私も人間でなくなった夜から、あの時から人間の事は餌としか見たことはなかった。もとより、それ以外に見ようもなかったが…。君もそうなんだろう?人間の女をヴァンパイアの魔力で魅せ、喰らう。激しく女を抱いて、そして飲むあの血の旨さ…。あれしか我らの喉を潤すものはないのだから。」

シスカは腕を摩り、バンジェスの言葉の意味、この老人の言わんとしていることは何なのか、それを探るために、その碧眼を射るように見つめた。

バンジェスはふふと含み笑うと、あしらうように言った。

「そう怖い顔をしなさんな。決して、君にとって悪い話じゃない。」

シスカはヴァンパイアになってから、恐らくはじめてだろう「まどろっこしく苛苛する」感覚を覚えた。

これまで、人間だった頃のように時間の事など気にする必要がなくなった時から、もう何にもじれったさを感じることなどなかったのに―。

「だが、そうはいっても人間の世界の夜は短い。そろそろ本題に入ろうか。」

そう言うと、ククイの方をちらりと見遣る。

ククイも同意するように頷いた。

「私が人間を愛したのは、ヴァンパイアになって…もう君も十分分かっているだろうが時間など我々には無意味。ずいぶん前に時間の事など考えなくなっていたから何年経っていたのかは正確には分からないが、そうだな、二百年は経っていたと思う。」

カップを手に取ると、その中身をクイと飲み干して、また話を続けた。

「とある国でひとりの女と出逢ってね、不思議なことに彼女にはまったく魅力を感じなかった。-魅力、というか餌として旨そうだという感覚を感じなかった。」

いつ席を立っていたのか、ククイがバンジェスの背後から現れ、自然なことのように二杯目のカップを差し出す。

それを当然のようにテーブルの上の空のカップと入れ替えた。

「何故なのか、その理由はまったく分からなかったよ。だが、これといってそれで困ることがあるわけじゃない。他の女を喰らい、そしてまた別の国へ行けば良い。それだけだったからね。」

シスカは小さく頷いた。

そうだ。

そのとおりだ。

シスカの頭の中にも、何故かあの生意気な小さな娘の顔がある。

だが、あんな小娘に関わる必要などない。

「だが、何故なのかどうしてもその女が気になってね。私は他の国へ移ることができずに、その国でのらりくらりと何か理由をつけてずいぶん永い間滞在していた。若い女の人間が熱病で死ぬ流行病が出るまでね。」



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