「恋しい人」 番外編 ~めぐる季節…2.5 ~
後編
紅茶のグラスも、水のグラスも空だった。グラスの汗を拭いた紙ナプキンが小さな丸い塊になってテーブルの上に転がっていた。カフェラテの名残を残した薄い液体を揺らして、駿太郎はコトリとそのグラスをテーブルに置いた。
「たとえば」
と、男は少し咳払いをした後に言った。
「そうだな…、たとえば、さっき、絡まれてたろ?あんとき、少しはその、ハダくんって子のこと、思った?ハダ君助けてー、とか。」
「そんな…こと、考える余裕なかった…っていうか」
「そっか。俺なら、ああいうとき、好きなやつの事真っ先に思うよ、きっと。かあちゃーんとか、とうちゃーんとか、そういうのの次に、好きな奴の事、考えるんじゃねえ?」
「きっと、考える前に助けてもらったから…。」
「うーん。なるほど。」
それから男はテーブルの上で腕を組んだ。駿太郎はグラスを揺らした。
「好きな人、いるんですか?たとえばああいう目に遭ったときに、真っ先に思う人」
「── うん。いるよ。」
だけれど、彼はそのポジティブな言葉と裏腹にカクンと頭を落として項垂れた。
「なんでガックリしてるの。」
と駿太郎が笑いながら問うと、彼はえー?と、とても幸せそうに笑って頭を上げて
「報われぬ恋だからさ」
と言った。
「妻子持ち…とか?」
「いんや。」
「違うんだ?」
「違う。でも、似たようなもんだな。ノンケなんだよ。」
それでも、彼はとても幸せそうだった。恋をする、ということはこういうことなのだと駿太郎は思う。
「でも、幸せなら、多分それだけでちゃんと報われてるんじゃないかな。」
「若造の癖に生意気なこと言いやがって。どの口が言ってんだよ。ハダはどうするんだよ。」
でも、駿太郎はそれには答えず、くすくすと笑いながら
「そっか…幸せ、か。」
と、ひとりごちた。
幸せだったな、と駿太郎は思った。それは、確かに「過去形」だった。恋の道は、いつもいつも平穏無事に幸せなわけじゃないと分っている。届かない想いに苛々したり、些細な事で言い争いをしたり、思わぬ障害に涙することもあるのだろう。それでも、こいつと二人で、と思えるなら、それはきっと幸せなことだ。恋しいと思う気持ちをいつも自分の胸に抱いて、どの道を選ぼうか迷う事があったとしても、恋しい人の手を放すかどうかに迷うことなどないだろう。
いつの間にか席を立った男が新しいカフェラテをコトリとテーブルに置いた。
「それからもうひとつ。知らない相手からの飲み物は飲んじゃダメだよ。クスリが入ってるかもしれないから。」
駿太郎はカフェラテを睨んだ。男はからからと笑って、席に座りながら駿太郎のカフェラテを取ると一口二口と吸って、もう一度駿太郎の前に置いた。
「カプセルとか。」
と駿太郎が言うと、
「上出来」
と親指を立てた。
「そろそろ行くよ。」
夜の来ない東京の町の片隅。男はコートを羽織り、携帯電話をジーパンの後ポケットに入れながら立ち上がった。
「あ、名前、聞いてもいいですか?」
口にしかけたカフェラテのストローを放しながら駿太郎が尋ねると、男はニコリと笑って答えた。
「タクミ。」
「タクミ、さん。」
「うん。またな。どこかで会ったら。」
「ありがとうございました。」
「どういたしまして。」
「あの、タクミさん。お幸せに。」
「努力するよ。」
「ぺい・・・ぺいいっと」
「フォアワード。」
男の黒いコートの裾がテーブルの端で跳ねて、男は手を上げてカフェを出て行った。彼は迷いもなく歩き去って、駿太郎は彼を見送る気持ちで彼が出て行ったドアの外を少し見ていたが、やがて目を逸らしてカフェラテの続きを啜った。それから、リュックのポケットから手書きの地図を出してカフェの位置を書き込んだ。
カフェの壁の時計は疾うに日付が変わっている。
何もかもを吐露して胸の内がすっきりしたせいか、ほんの少し眠い気がした。駿太郎は目を擦ってカフェラテを啜る。今夜はどうしようか。手書きの地図を指でなぞる。足を踏み込んだばかりの世界がそこにあった。駿太郎の紺色のスニーカーがトン、と床を蹴るようにテーブルの下で鳴った。
終わり
「たとえば」
と、男は少し咳払いをした後に言った。
「そうだな…、たとえば、さっき、絡まれてたろ?あんとき、少しはその、ハダくんって子のこと、思った?ハダ君助けてー、とか。」
「そんな…こと、考える余裕なかった…っていうか」
「そっか。俺なら、ああいうとき、好きなやつの事真っ先に思うよ、きっと。かあちゃーんとか、とうちゃーんとか、そういうのの次に、好きな奴の事、考えるんじゃねえ?」
「きっと、考える前に助けてもらったから…。」
「うーん。なるほど。」
それから男はテーブルの上で腕を組んだ。駿太郎はグラスを揺らした。
「好きな人、いるんですか?たとえばああいう目に遭ったときに、真っ先に思う人」
「── うん。いるよ。」
だけれど、彼はそのポジティブな言葉と裏腹にカクンと頭を落として項垂れた。
「なんでガックリしてるの。」
と駿太郎が笑いながら問うと、彼はえー?と、とても幸せそうに笑って頭を上げて
「報われぬ恋だからさ」
と言った。
「妻子持ち…とか?」
「いんや。」
「違うんだ?」
「違う。でも、似たようなもんだな。ノンケなんだよ。」
それでも、彼はとても幸せそうだった。恋をする、ということはこういうことなのだと駿太郎は思う。
「でも、幸せなら、多分それだけでちゃんと報われてるんじゃないかな。」
「若造の癖に生意気なこと言いやがって。どの口が言ってんだよ。ハダはどうするんだよ。」
でも、駿太郎はそれには答えず、くすくすと笑いながら
「そっか…幸せ、か。」
と、ひとりごちた。
幸せだったな、と駿太郎は思った。それは、確かに「過去形」だった。恋の道は、いつもいつも平穏無事に幸せなわけじゃないと分っている。届かない想いに苛々したり、些細な事で言い争いをしたり、思わぬ障害に涙することもあるのだろう。それでも、こいつと二人で、と思えるなら、それはきっと幸せなことだ。恋しいと思う気持ちをいつも自分の胸に抱いて、どの道を選ぼうか迷う事があったとしても、恋しい人の手を放すかどうかに迷うことなどないだろう。
いつの間にか席を立った男が新しいカフェラテをコトリとテーブルに置いた。
「それからもうひとつ。知らない相手からの飲み物は飲んじゃダメだよ。クスリが入ってるかもしれないから。」
駿太郎はカフェラテを睨んだ。男はからからと笑って、席に座りながら駿太郎のカフェラテを取ると一口二口と吸って、もう一度駿太郎の前に置いた。
「カプセルとか。」
と駿太郎が言うと、
「上出来」
と親指を立てた。
「そろそろ行くよ。」
夜の来ない東京の町の片隅。男はコートを羽織り、携帯電話をジーパンの後ポケットに入れながら立ち上がった。
「あ、名前、聞いてもいいですか?」
口にしかけたカフェラテのストローを放しながら駿太郎が尋ねると、男はニコリと笑って答えた。
「タクミ。」
「タクミ、さん。」
「うん。またな。どこかで会ったら。」
「ありがとうございました。」
「どういたしまして。」
「あの、タクミさん。お幸せに。」
「努力するよ。」
「ぺい・・・ぺいいっと」
「フォアワード。」
男の黒いコートの裾がテーブルの端で跳ねて、男は手を上げてカフェを出て行った。彼は迷いもなく歩き去って、駿太郎は彼を見送る気持ちで彼が出て行ったドアの外を少し見ていたが、やがて目を逸らしてカフェラテの続きを啜った。それから、リュックのポケットから手書きの地図を出してカフェの位置を書き込んだ。
カフェの壁の時計は疾うに日付が変わっている。
何もかもを吐露して胸の内がすっきりしたせいか、ほんの少し眠い気がした。駿太郎は目を擦ってカフェラテを啜る。今夜はどうしようか。手書きの地図を指でなぞる。足を踏み込んだばかりの世界がそこにあった。駿太郎の紺色のスニーカーがトン、と床を蹴るようにテーブルの下で鳴った。
終わり