真っ暗な世界で
何分、菊田さんに抱き締められていたんだろう。きっと30秒程なんだが、私には数分のように思えた。


私の背中に回っていた手の力が段々弱くなる。


「………わりぃ」


そう一言、切なそうに呟いて菊田さんは離れた。


「菊田さん…」


きっちりと、言わなければならないと思った。そうじゃないと、私も、菊田さんも、スッキリしないまま別れてしまうことになるから。


「菊田さんは、良い人です。目の見えない私を軽蔑するわけでもなく、普通に接して下さいました。………でも、あなたの想いに応えることは私には出来ません」


私には、出来ない。人の想いに応えることなんて。この時代に、男として、生きる為には女としての幸せなんてものは捨てなければならない。


菊田さんのことは嫌いではない。ただ、私の生きる道に、恋という不確かなものは必要ないのだ。



「…………そうか。ありがとよ」


「……」


菊田さんは少し辛そうだったけど、さっきとは違う、前を向いて歩きだそうとしている、少し明るい声だった。


そのことにホッとして、少しだけ、口角をあげた。


「ほら、行くんだろ?準備しろよ」


「はい」


菊田さんは髪の毛の付け髪までとって、部屋から出た。


これから私は男装しなければならないから、気を利かせてくれたのかな。


さっさっと着物を脱ぎ、いつもの袴を着て、付け髪と簪を手持ちサイズの木箱に入れる。


あとは眼帯を外せば終わり。


着物をかるくまとめた後、菊田さんがいる、部屋の外に出た。


「行きましょう、菊田さん」


「あぁ」


さりげなく手を握られ、引っ張られたけど、これが最後だから。


彼が私の手を繋ぐことも、私が誰かとこんなふうに手を繋ぐことも。





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