聖乙女(リル・ファーレ)の叙情詩~奇跡の詩~
「…早く逃げろ」

響きのよい声が告げた一言に、リュティアが思わず目を見開いて「え…?」と訊ね返したのは、無理のないことだったろう。しかしライトはその反応に苛立つように声を荒げた。

「いいから早く逃げろ! 俺は―」

シャキンと刃が鳴った。

見開くリュティアの瞳の真横に、銀の刃が突き立っていた。

それはリュティアの桜色の髪をひと房、宙に舞わせた。

切り取られた髪を握りしめ、ライトは絞り出すように言った。

「俺はお前を殺したいんだ。確かに殺したいんだ」

突き立てられた刃に力がこめられる。震えている。

抗っている。

「殺してしまう前に…逃げろ」

リュティアは無言で頷いていた。泣きそうになりながら何度も何度も頷いて、よろよろと歩きだした。

背を向けた二人の間に、ライトの声が投げかけられる。

「…ひとつ、言っておく。俺はお前を好きだと言った…あれは、嘘だ。魔月にそんな感情など、あるはずもない」

その声に滲んだ苦渋の響きに、リュティアは気がつかなかった。

「嘘………だった…?」

その言葉は以前のリュティアになら確かに大きな衝撃をもたらしたはずの言葉だった。しかし不思議とこの時リュティアは、その言葉を自然に受け止めることができた。

嘘だった。それでも構わないと思った。

―そうではなくて。そんなことではなくて。

リュティアはマントの前をかきあわせた。ライトの優しさをかき集めるように。そして胸元でぎゅっとマントを握りしめる。

―この優しさは、嘘ではないのだ。嘘なんかではないのだ。

「あなたは魔月なんかじゃない…魔月なんかじゃない」

それはリュティアの心が紡ぐ一言だった。

リュティアがこの時もしも振り返っていたら、ライトの背中に滲む哀愁に気がついただろう。そしてリュティアはたまらずに引き返し、彼の背中を抱き締めていたかも知れない。そうすれば、きっとすべては変わっていただろう。

しかしリュティアは振り返らなかった。

振り返ろうと思わなかったのだ。

一歩一歩、確かに足を速めてライトから遠ざかりながら、リュティアは叫ぶように思う。

―どうすれば救える!?
と。

確かに心の奥底から湧き上がってくるものを、感じながら。
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