聖乙女(リル・ファーレ)の叙情詩~奇跡の詩~
「…レト様は私を愛していない。私もレト様を愛していない。でも私たちは結婚するのです。何かおかしいわ」

リュリエルはレトが辞去したあと、まっさきに城内にある親友の詩人ナッシュの部屋へ赴きそう呟いていた。

「そうだね。そう思うことはとても大切だよリュリエル。私たちは疑問を抱きながら生きていく者だから」

歌うように言いながら、ナッシュは緩やかな動きで竪琴をつまびく。話を真面目に聞いていないのではない。彼はいつでも音楽の世界の中に身を置いているだけだ。

「こんな疑問を抱えたままで、いいのでしょうか…。いやになります。こんなに世界は美しいのに、その恵みを皆等しく受け取っているのに、どうして皆仲良く、自由に、暮らしていけないのでしょう」

「さだめだからね」

「ナッシュまで、私に戦えと言うのですか?」

「違うよリュリエル。悩み、考えることが、さだめなんだ。君はそうして必ず、ひとつの道を選び取っていける…おや、いいのが浮かんだ」

ナッシュが手元の楽譜に何やら書きこむ。

ナッシュの言うことは抽象的すぎてよくわからないことが多い。けれど彼と話すとリュリエルはなぜかいつもほっとした。だからこの大切な友人に、リュリエルは昔から何でも打ち明けてきた。

「ナッシュ。光神様からのお告げを聞きました。私はしばらくここを留守にします」

「おや、どこへ?」

「世界の核、“幾千万の森”へ行きます」

―“幾千万の森”。

それは世界の中心の大森林。

美しい森にあふれたこの時代のどんな森よりも深く、美しく、神聖とされ、何人たりとも立ち入ってはならないことが暗黙の了解となっている場所だ。

「光神様は、そこに答えがある、たった一人で赴けとだけ仰っていました。アンジュの姫として、お言葉通りたった一人でそこに赴き、その答えをみつけるまで、私は帰ることができません。ひょっとしたら何か月もかかるかも知れない」

魔月はびこるこの時代それは危険をはらむ仕事であったが、リュリエルにとっては救いだった。それだけ婚姻と戦いを遅らせることができるのだから。

「それは寂しくなるね」

そう言うナッシュの表情はいつもの穏やかな微笑みを浮かべていて、ちっとも寂しそうではない。だからリュリエルは安心して出かけられる。

「気をつけて。君のために一曲歌おう」

「ありがとうナッシュ」

―そう、私はお告げの通りに幾千万の森へ出かけたのだ。

―そしてそこで、大切なことが起こる。とても大切なことが起こる…。
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