I love you に代わる言葉
 一番最初に脳裏に映し出されたのは、おねーさんの頬に伝った、一筋の涙だ。心がズキッと痛む。ケンヤ、という名前を呟いていた。あの時は瞠目し、ただただ心内は狼狽した。何も言えなかった。何も聞けなかった。
 ボクが黙っておねーさんを見ていると、突然ハッと我に返ったように表情を一変させ、ごめんなさい……、と何に対してなのかよく解らない謝罪を、恥じらいと焦燥の混じる表情でおねーさんは述べた。そして、サッと頬を伝った涙を拭い、何事も無かったかのように、帰りましょうか、と笑顔で言った。
 ボクの胸中は、確かにざわざわと何かが密めき合っていたのに、けど、あの時は素知らぬフリをしておねーさんの言葉に従う他無かった。
 立ち上がるとボクは再度、傘持つよ、と言った。すると、おねーさんは寂しげに微笑みながら礼を言うと、漸く傘を手渡してくれた。
 今になって、相合傘をした事に羞恥心を覚えるが、昨夜はそんな事よりも『ケンヤ』という名前が気になって仕方がなく、帰り道はその羞恥も、ずぶ濡れ故の不快感も何処かに置き去りのまま、『ケンヤ』についてだけを長く沈思していた。
 ケンヤとは、おねーさんが昔付き合っていた男の事だろうか。写真に写っていた、おねーさんにオルゴールをあげたという。シンに詮索してやるなと言われたが、ボクはもう我慢ならなかった。シンに問い詰めても口を割らないだろうから直接おねーさんに聞いてみるしかない、とボクは考えた。
 帰宅後、ボクはすぐにシンの部屋に入ろうと扉を開けたが(二人の姿はそこに無かった)、おねーさんに風呂で温まった方がいいと言われ、素直にそれに従った。風呂に向かう時に、二人がリビングに居る事を知った。まぁ、部屋に居ない時点でリビングしか行き場は無いんだけど。確かに二人はそこに居るのに、テレビの音声も二人の話し声も聞こえないから、何やってるんだろうと思ったが、ボクは一度も二人に目を向けなかった。
 風呂から上がって部屋に向かう時にも、二人はリビングに居た。今井はいつ帰るんだと思ったが、やっぱりその問いも心の中に仕舞い込み、部屋に戻るとボクは倒れ込むようにベッドに寝転がりそのまま目を閉じた。
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