ドミナントセブンスコードBm7
 目覚ましが鳴る五分前に目が覚めた。じっとりと汗をかいた前髪を指で後ろにとかす。
 ふと壁を見ると、黄ばんだ湿度計が差す数値は80を超えていた。
 温度計の数値と照らし合わせて不快指数を計算しようとして止める。不毛だ。

「雨かな」

 嫌だな、と同じ響きでそう呟き、カーテンを開けた。緑にむせかえる庭の上、灰色の空が見える。まだ降ってはいないようだ。
 古びたCDデッキのラジオをつけ、音量を上げる。
 布団を畳んで洗面所へと向かった。

 あけっぱなしの寝室からラジオがニュースを告げている。
 電波塔が移動し、この家でテレビが見られなくなって四年が経っていたが、別段不便に感じたことはなかった。
 大学のクラスメイトからは驚かれたが、買い替えるお金もないし、というと大体は納得してくれる。

 目玉焼きと赤いウィンナーソーセージとトーストの朝食をインスタントのコーヒーで流し込み、流し台に浸す。ついでに食後の歯磨き。
 髪を結って身支度を整え、再び寝室に戻り、奥の仏壇へ向かった。

「行ってきます」

 手を合せ、立ち上がる。ラジオを消し、憂鬱な空が広がる外へ出た。

 両親がこの家を建てたころに植えたという、樹齢60年余りの桜が、青々と茂った葉を揺らしている。
 母と違い植物に疎い自分の、ぞんざいな水やりでもどうにかしぶとく生き残った花たちが、崩壊学級のような奔放さで庭でめいめいに枝葉を伸ばしていた。

 懐中時計を一度見て、15分後のバスに間に合うように、ゆっくりと道を下っていく。

 この周辺は、街全体が坂でできていて、平らな部分に建てられている家はほとんどなかった。
 まだ昭和の初めに、高台の家という魅力的な誘い文句で乱立した住宅街は、今やその大半が空き家となっている。
 ひっそりと住んでいるのは、ここ以外に居場所がない者……子供のいない老夫婦、独り暮らしの老人、あと……私みたいな。自虐に肩をすくめる。あるだけいいほうだ。

 ブレーキをかけ損ねた車が突っ込んで三メートル下の畑に落ちて以来、ガードレールが壊れたままの角を曲がり、少しの地震で今にも坂の下に落ちそうな廃車がすんでのところで引っ掛かっている駐車場を過ぎる。
 ボンネットの上で、だらけた黒猫が寝ころんでいた。
 助手席からにいにいと数匹の仔猫の声が聞こえた。夏の子が生まれたらしい。
 ……そこを住処にするのはいい加減やめたほうがいい気がするのだけれど。
 こちらの視線を感じたのか、黒猫があくびがてらにゃあと鳴いた。

「他に行くとこもないか」

 そうそうその通り、お前さんと一緒でね、とでも言いたげに黒猫は一度目を細め、するりと子供の待つ助手席へと消えていった。

 両親が亡くなって、すでに二年が経とうとしていた。二回目の両親。
 一回目の別れは突然だったから、それに比べれば緩やかに済んだように思う。

 残されたのは坂の上の一軒家と、桜の庭。
 恵まれてるほうだ、と一人頷き、きゅっと口を結ぶ。
 残してくれたのだ。繊細な花は根こそぎ枯らしてしまったが、自分にはあの家と庭を守っていく義務がある、と七奈は思う。
 固定資産税くらいは払っていかなくては。
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