のざとの丘
きっかけは些細なことで
リビングには、カレーの匂いが
漂い始めていた。
「何これ、キャンプでもするの?」
食卓に無造作に置かれ、扇風機に
ヒラリと飛ばされた写真を拾い上げると、
こじんまりとしたコテージ風の建物が
写っていた。
クリップで挟まれたメモ用紙には
『のざとの丘、一ヶ月』と、小さく
丸っこい母の字で書き込まれている。
「おかーさん、
しばらく出張じゃなかったっけ」
鼻歌が聞こえる台所に向かって
問いかけると、よくぞ聞いてくれました
と言わんばかりの笑顔で
エプロン姿の母が飛び出してきた。
ちょっと見ただけでわかるほど、
全身から上機嫌なオーラを惜しげもなく
発散させている。
「あ、そうそう。言ってなかったわねえ!
そうなの、ロッジだか何だかって場所
---普段はどこかのお金持ちの別荘
らしいんだけど---そこを夏の間だけ
開放するんですって。
宿泊費無料で募ってるらしくってね。
タダでよ?タダで!」
「タダで!」と、お玉を持って勢い良く
振り回すので、べっとりと付着した
カレールーが四方に飛び散っている。
「へえ、そうなんだ」
掃除が大変そうだとぼんやり考えながら、
適当に相槌を打つ。
「で、明日からお母さん
出張行くことになったから、
あんたをしばらく預かってもらうの」
「ふーん・・えっ?」
「生活用品とかは揃ってるらしいから、
着替えの服だけ持って行きなさいね」
明日の朝ごはんはカレー雑炊よ。とでも
言うような調子でサラッと言い放ち、
あら通帳どこいったかしらと
ぶつぶつ呟きながら
さっさと寝室の方に歩いて行ってしまう。
「え、ちょっ・・おかーさん!」
カレー火にかけっぱなしだけど大丈夫--
いや、違う。そっちじゃなくて。
「・・明日?」
しばらく呆然とつっ立っていると、
ほったらかしにされた鍋が
盛大に噴きこぼれ始め、我に返る。
「・・えーっと」
随分と急な話で、色々とついていけない
けど・・とりあえず。
「火、止めなくちゃ」
---焦げ付き始めた鍋の匂いを感じて、
急いで台所に駆け込んだ。