のざとの丘
「お客様を別荘の方にご案内する前に、
話しておかなくてはと思いまして・・」
三ツ矢さんは口の中でもごもご言った後、
怯えたような表情を浮かべて
黙り込んでしまった。
その反応に妙な既視感を感じて、
ぼんやりと思い出を手繰り寄せる。
(・・あ、そうだ)
『あんたがた、柊ヶ岳に行くんか・・』
あの、不気味なおじいさんだ。
くるくると、瞬時に記憶が
二時間ほど巻き戻される。
パッと思い浮かんだのは
----屋台の看板だった。
『お母さんすぐ仕事行っちゃうから
ご挨拶とかできないけど、
失礼のないようにね』
『ふぉん、ふぁかった』
唐揚げを頬張りながら、
いい加減に返事をする。
朝早くに出発し、中央自動車道に乗って
特に渋滞もなく通過点の
サービスエリアに着いたので
何か朝食替わりに食べようと
車を停めて施設内に入った薫子たちは
----そこで、不思議な老人に会った。
『柊ヶ岳まで思ったほど
距離もなかったわね。
麓にお迎えが来るらしいから、
とりあえずそこまで行きましょうか』
手に持った唐揚げパックをつつきながら、
母が地図を広げる。
今日から一ヶ月、
薫子が預けられることになった
貸別荘「のざとの丘」は、
柊ヶ岳[ふきがたけ]という
険しい山の奥深くに
ひっそりと建っているらしい。
『執事の人が来るんだって。
お金持ちは違うねえ』
無事に近くまで来ることのできた安堵感
からか、軽口が自然と滑り出る。
唐揚げをヒョイと口に運び、
あまりの熱さに目を白黒させながら
飲み下していると、突然
しゃがれた声に呼び止められた。
『もし・・あんたがた』
振り返ると、腰を曲げた老人が
屋台を背にして、
白く濁った瞳でこちらを見ている。
小さな、蚊の羽音のような低い声を
絞り出すようにして問いかけてくる。
『あんたがた・・柊ヶ岳に行くんか』
『・・なんですか、いきなり』
老人のただならぬ様子に、
母が警戒の色を見せる。
しかし老人はそんな反応を気にも止めず、
薫子のすぐ近くまでにじり寄ってくる。
『柊ヶ岳は・・柊ヶ岳に行っては
・・あの山はな・・あの山は・・』
血走った目を見開き、
薫子の腕を異様なほどの
強い力で掴んで囁きかけてくる。
老人の口元からは泡がこぼれ、枯れ木の
ような手足が小刻みに震えている。
『あの山は・・・ああ、恐ろしい。
恐ろしゅうてこれ以上は・・・』
そう言って口をつぐみ、
何かから身を守るようにしながら
離れていってしまった。
『--あの、ちょっと!』
放心したようにそのさまを見ていた母が、
我に返って老人を追いかけようとすると
---パーキングに流れる大勢の
人ごみに紛れて、
老人の姿は忽然と消えてしまっていた。
そして今は、その柊ヶ岳の麓にある
三ツ矢宅でお茶を頂いているわけだが。
ここに来る前にそんなことがあったので、
先程の三ツ矢さんの態度は引っかかった。
「・・柊ヶ岳には、何かあるんですか?」
なるべく平静を装いながら聞くと、
新しい茶菓子を皿に移し替えていた
三ツ矢さんの手が、ピタリと止まる。
「・・ええ。やはり、
お話しておかなくてはなりませんね」
羊羹の皿を静かにちゃぶ台に置いて、
こちらに向き直る。
整えられた白髪頭も、品の良い和服姿も、
ぴんと伸びた背筋も、
同じくらいの年月を経ていても
あのサービスエリアで出会った
老人とはまるで違う。
違うはずなのに何故だか、
あの時感じた訳のわからない恐怖が
再び襲ってくる。
「お屋敷から仰せつかっているのは、
藤間様をお迎えし、
別荘にお送りすることのみ。
ありがたくも旦那様、
坊ちゃん方に信頼を寄せて頂き、
その信頼を裏切るような真似を
してしまうこと非常に
心苦しくもございますが・・」
仄暗い光を帯びた瞳で薫子を見据え、
強い口調で言い放った。
「老婆心ながら申し上げます--柊ヶ岳に、
足を踏み入れてはなりません」