レディ・リズの冒険あるいは忠実なる執事の受難
黒山羊
 中に入る前にエリザベスは大きく息をついた。中でどんな相手が待っているのかと思うとさすがに緊張する。
 もう一度深呼吸してから、思いきって足を踏み出す。扉の中で待っていたのは、直接の面識はなかったが、エリザベスも顔だけは知っている男だった。

「まあ、あなただったの。テレンス・ヴェイリー」
 後ろ手に扉を閉じたところで、エリザベスは立ち止まる。テレンス・ヴェイリーと呼ばれた男は、ボックス内に置かれていた椅子から立ち上がり、丁寧にエリザベスに一礼した。
「おや、初めまして、ではありませんでしたかな?」
「いえ、直接お会いするのは初めてよ――でも、あなたは有名人だもの」

 相手の顔を確認したとたん、エリザベスの身体から緊張が抜けた。手すりの向こう側には舞台の正面が見えた。
 ちらりと横に視線をやれば、テーブルには氷の入ったバケツにシャンパンの瓶が冷やされ、チーズやクラッカーなどの軽食が一緒に置かれている。
「さて、お嬢さん。あなたのために最高の席を用意したつもりだ。さあ、そこの席にどうぞ」

 エリザベスに正面から見られたヴェイリーは、表情一つ変えず、椅子を勧める。年の頃は四十……いや、五十にはなっているだろうか。
 年齢のわりに白髪の少ない黒い髪はぴったりと撫でつけられている。それとは対照的に顎には山羊のような髭を生やしていた。
 髪の色と髭の形から『黒山羊』とも呼ばれる、エルネシア国内でも有名な実業家だ。おそらく総資産はマクマリー家のはるか上をいく。エリザベスも裕福ではあるのだが、彼の足下にも呼ばないだろう。
< 88 / 251 >

この作品をシェア

pagetop