根雪
間もなく警官が戻って来て、看護師は出て行った。警官は穏やかな笑顔を見せながら、ベッド横の椅子に座った。
「相田美知さん、でいいのかしら?免許
証はそうなってたけど。」
美知は答える気力もなかった。顔を背ける力さえ湧いてこず、ただ警官の制服だけを見ていた。
「答えたくない?じゃ、せめて一緒にい
た男性の名前くらい教えて。ご家族に
連絡しなきゃいけないから。」
「家族なんかいません。あの人、ひとり
ぼっちだから。」
「でも、ご親戚とかお友達とか、いらっ
しゃるでしょ?名前だけでも。」
「島野誠、三十七才、名寄市の出身だそ
うです。」
「あら、地元の方なのね。あなたとの関
係は?」
「中学の時の担任の先生。」
「その先生と、どうして一緒だったの?
お医者さんの話だと、先生は病死なさ
ったみたいだけど。」
「先生も私も、ひとりぼっちだから。」


それから美知は何を聞かれても答えなかった。ひとりぼっちの理由を話したくなかったからだ。胸が痛くて言葉にならなかった。島野としっかり繋いだつもりだった左手は、簡単に離れてしまった。握っていたのは美知だけで、島野が握りかえすことはなかったからだ。美知の左手は、島野の右手の冷たさを覚えている。あの時冷たかった自分の手も今は温かい。それは生きている証拠だった。その温かい手を見つめていると、少しずつ震えてきて、目の前がどんどん滲んできた。目から涙が溢れたのを感じた時、美知の中で何かが壊れたように突然大声で叫びだした。
「ちょっと、相田さん、落ち着いて!」
警官が暴れる美知を必死で押さえつけた。何故暴れているのか、美知にもわからない。ただ何かが胸の奥から這い上がってきて、痛いような苦しいような、熱いような冷たいような、訳のわからない激しい衝動が美知を突き動かした。騒ぎを聞いて、何名かの医療スタッフが駆け込んできた。
「何があったんですか?」
「わかりません。急に暴れだして。」
看護師が指示を受けて注射器に入った薬剤を持ってきて、医師は点滴のラインからそれを注入した。ゆっくりと送り込まれた薬剤に反応したように、美知は力を失い、やがて意識を失った。
< 4 / 15 >

この作品をシェア

pagetop