【彼女のヒミツ】


午前九時四十分、蝉時雨の中、礼二は自転車で塾に向かっていた。

七月も終わりに近付き、炎暑が土足で日本にやってくる。

照りつける太陽が彼の額に汗を滲ませていた。

ふっ、短く息を吐くと、礼二は気合い一つを入れた。

この先に、心臓破りの急勾配な坂が待ち構えているからだ。

彼はペダルを力強く漕ぎ、助走をつけた。

「くっ…」

ペダルが重い。彼は坂の中腹辺りで限界を感じた。

「もう、だ…め…」

顎が上がり、礼二は立ちこぎのまま、一時停止のような格好となった。

彼は自転車と共に崩れ落ちるかのように降りると、何度も肩で息をした。

十数秒その場で休んだ彼は、自転車を押しながら、坂を上がった。

夏休み中には、一度も足を着かずに、この坂道を上がってやる。

礼二は目標の一つに、坂道征服を掲げていた。

坂道征服には理由があった。

この坂道で絶対出会う少女がいるからだ。その娘は今日も坂道を歩いて上がっていた。

彼女の名前は森永里子。

いつもこの時間、タイミングに会う。彼女の行き先は知らないが、礼二にとって、森永里子と会うのは良い気分がしなかった。

礼二が坂道に来る時間を早めるか、遅くするかすれば解決する。

だが森永のために時間を調節するのは、なぜか癪(しゃく)に触った。

森永は、坂道を歩く速度が遅い。

そんな大きな手提げ鞄を持っているから遅いのだと、心の中で揶揄する。

いつも自転車を押す礼二が、彼女を追い越すのだが、その瞬間、彼の胸に気まずさが生じる。

彼は気さくではない。全く親交のない森永を無視する。

初めて彼女とこの坂道で会った時、礼二は挨拶のタイミングを掴めなかった。照れもあった。

一度挨拶の機会を逃すと、次からしずらくなる。その日以来、彼女を無視するようになったのだ。

常に下を向いて歩く森永が、礼二に気づいているかどうかは、彼にはわからなかった。

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