月のセレナーデ
「おかえり、夏実…」

蒼白な顔をした母は、低い声でゆっくりと呟くように言った。

余りの恐ろしさに、私は後ずさりをし、後ろの壁にぶつかった。

「た…ただいま。どうしたの?」

私は顔を引きつらせて聞いた。

母は相変わらずゆらりゆらりと体を揺らし、こちらに近づいてくる。

つう、と冷や汗が流れた。

精気のない屍のような顔が近くにあった。
いつも見る、あの元気な母の姿とはどこにもない。

一体、私が居ない間に何が起こったと言うのだろう。母の言動が、その深刻さを物語っていた。

しばらくの間沈黙が続いたが、ようやく母は口を開いた。

「夏実…」

「な、何…?」

「しばらくの間、引っ越すから」

「えっ…?」

私は目を丸くした。

この家庭はそこまで深刻なことになっていたのか。
父も母も弟も、皆仲良くやって来たつもりでいた。けれど、もうここまでなのだろうか。

家庭崩壊なんて冗談じゃない。

「お母さん?どうしたの?何があったの?話して。あたし、どんなことだろうが、驚かないから」

母の肩をそっと抱く。

母は虚ろな瞳でこちらを見た。

「ね、何があったの?どうして引っ越すの?」

するとぎゅっと私の手を握り、じっとこちらを見てきたので、私は息をのんで母の言葉を待った。
< 14 / 26 >

この作品をシェア

pagetop