虫の本
そのまま彼は、最初にサリジェが向っていた方向へ視線を移す。
そこには今まで在りもしなかった貸し出しカウンターが存在していて、しかも司書さん様はいつの間にかカウンターの向こうの椅子に腰掛けていた。
多少混乱しながらも、慌てて彼の元へと駆け寄る私。
不思議な人である。
「最後に一つだけ良いかな?」
「はい?」
司書さん様はバチリと似合わないウィンクをしてみせた。
「経緯はともあれ本から出た以上、君はもう自由だ」
「はい」
自由。
それは、無駄に重い言葉である。
「君は自らが行う全てに責を負い、自分で考え、自分で決め、自分の力で生きていく義務がある。それは権利などといった生易しいものではない」
「……はい」
「君は既に加賀由加などではなく、ただの“本の虫”だ。それは、様々な本を渡り歩く読書家であり、多くの本を食い荒らす害虫でもある」
「…………はい」
貴方は登場人物でした。
名もあり、台詞もあり、外見も描写され、性別も年齢も性格も職業も経歴もその他いろんな設定もありました。
しかし、それが記された本は、もうどこにもありません。
そう。
貴方はもう、決められた台詞を読む必要は無いのです──
唄うような司書さん様の言葉が、薄暗い図書館に響き渡った。
それはお伽話の魔法使いが唱える魔法の呪文のように、混沌とした私の心へ深く深く染み込んでいく。
彼は普段は敬語を使わないようなので、その堅い言葉使いはちょっとだけ可笑しかった。
私は答える。
意志を持って、人間らしく。
加賀由加として。
「大丈夫です。案は大樹のものでも、本の破棄を止めたいって意志は私の物。役者を降ろされたなら、自分で作っていきますよ、私の物語を」
「上出来だ、満点をあげよう。さあ、こちらを──」
彼は例の鞄から書類とペンを取り出してカウンターの上に置き、私にサインを勧める。
私は少しだけ悩んだ後、そこに加賀由加“ではない”新しい自分の名前を書き記した。
こうして私達の戦いは、今ようやく幕を開けたのだった。
既に滅び去った“虫の本”を取り戻す──ただその為だけに。
そこには今まで在りもしなかった貸し出しカウンターが存在していて、しかも司書さん様はいつの間にかカウンターの向こうの椅子に腰掛けていた。
多少混乱しながらも、慌てて彼の元へと駆け寄る私。
不思議な人である。
「最後に一つだけ良いかな?」
「はい?」
司書さん様はバチリと似合わないウィンクをしてみせた。
「経緯はともあれ本から出た以上、君はもう自由だ」
「はい」
自由。
それは、無駄に重い言葉である。
「君は自らが行う全てに責を負い、自分で考え、自分で決め、自分の力で生きていく義務がある。それは権利などといった生易しいものではない」
「……はい」
「君は既に加賀由加などではなく、ただの“本の虫”だ。それは、様々な本を渡り歩く読書家であり、多くの本を食い荒らす害虫でもある」
「…………はい」
貴方は登場人物でした。
名もあり、台詞もあり、外見も描写され、性別も年齢も性格も職業も経歴もその他いろんな設定もありました。
しかし、それが記された本は、もうどこにもありません。
そう。
貴方はもう、決められた台詞を読む必要は無いのです──
唄うような司書さん様の言葉が、薄暗い図書館に響き渡った。
それはお伽話の魔法使いが唱える魔法の呪文のように、混沌とした私の心へ深く深く染み込んでいく。
彼は普段は敬語を使わないようなので、その堅い言葉使いはちょっとだけ可笑しかった。
私は答える。
意志を持って、人間らしく。
加賀由加として。
「大丈夫です。案は大樹のものでも、本の破棄を止めたいって意志は私の物。役者を降ろされたなら、自分で作っていきますよ、私の物語を」
「上出来だ、満点をあげよう。さあ、こちらを──」
彼は例の鞄から書類とペンを取り出してカウンターの上に置き、私にサインを勧める。
私は少しだけ悩んだ後、そこに加賀由加“ではない”新しい自分の名前を書き記した。
こうして私達の戦いは、今ようやく幕を開けたのだった。
既に滅び去った“虫の本”を取り戻す──ただその為だけに。