虫の本
 多少は現実味のある俺の意見に由加が揺れかけたが、赤髪はすぐに遮りにかかった。
「勘違い、ね。どの辺りが?」
 威圧的な態度にならないよう、座ったまま少女を見上げる。
 相手の頭が自分より低ければ、彼女もそう無茶もすまい。
 たまには折れてやる事も、年長者の務めだろう。
「全部ですよ。“この本”は一見した所だと物理則がかなり高く、制御則もそこそこあるようですが、幻想則が極端に低いようです。貴方達は私が引き起こした現象を理解出来ずに驚いて、咄嗟に逃げ出してしまった」
 違いますか、と赤と黒の少女。
 分っかんねー子だなあ。
 少なくともさっき体験した事の中に、未知な部分は無いと言っても問題ないはずだと、俺が説明したばかりだろう。
 大体、ゲンソウソクって何だ?
 思わずそう漏らしてしまった俺に、赤髪は不愉快そうに眉を寄せた。
「本当に、それで納得出来ますか?」
「引っ掛かる言い方をするね」
 俺が迂闊な事を言ってしまったと判断した由加が、咄嗟に合いの手を入れる。
 さすがは由加、絶妙のタイミングだ。
 うーん、俺の認識にどこか抜けてる所ってあっただろうか……?
「喫茶店を飛び出した時の事です」
「あー、お陰で俺達は食い逃げ犯になっちまったんだっけ。今から戻ってお金払ったら、騒ぎにしないでくれるかなー」
 退学とか停学とか、なったりしないかな?
 警察沙汰だけは勘弁して欲しい所である。
 …………。
「……騒ぎ?」
 自分の言葉に何か不穏な物を感じて、俺はその単語を反芻した。
 騒ぎ。
 食い逃げ。
 店員。
 客。
 そう言えば、俺達が店を飛び出した時──「“誰も騒がなかった”ような……いや、店員が追い掛けて来すらしなかった?」
「え……あっ!?」
 由加も思い当たったらしい。
 白昼堂々、高校生二人組による無銭飲食。
 店長も店員も客も、無反応を通すはずがない。
 無反応。
「無反応? 反応出来ない……?」
 あの“声”にだけじゃない。
 俺達の食い逃げにすら、彼等は反応しなかったというのか?
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