虫の本

名も無き●の場合

 事の始まりは小さな“穴”だった。
 小さな。
 とても小さな。
 その中は全く光が射す事は無く、かと言って暗闇に覆われている訳でも無い。
 そんな灰色の無があった。
 否。
 無ゆえに“無かった”のか。
 ともあれそれは、ある日突然現れたのだ。
「何だろうね、これ」
 彼には名があった。
 台詞も用意されていたし、細かい設定も持っていた。
 胸踊る見せ場もあったし、肝を冷やす危機もあった──はずだ。
 しかし、彼はそう言った。
 言ってしまった。
 台本には無い台詞だ。
“それ”が現れなければ、決して言う事は無かったであろう、そんな台詞。
「穴……だよな? 何処に通じているんだろう」
 彼は問う。
 しかし、それに答える者は誰も居なかった。
 当たり前だ。
 この場にいる者で、細かな設定を持つのは彼だけなのだから。
 そう、●達はそれに対して何かを思う個性すら持たされていないのだから。
 そのはずだから。
 そして、●も彼もその事に疑問を持つ事がなければ、気付く事もない。
 それが、●達にとっては当たり前な事であり、真実であり、仕様なのだから。
「石でも投げ入れてみようか」
 彼は手近な石を手に取り、その小さな穴の中に放り込む。
 十秒。
 二十秒。
 三十秒。
 ……一分。
 ………………。
 石が穴の底に到達して何かにぶつかる音は、聞こえる事が無かった。
 この小さな奈落に、底は無い。
「うわ、危ないなあ。よく分からないけど、これに近づいちゃ駄目だね」
 確かに彼の言う通りだった。
 が、この時の●は結局この穴?が何なのかなんて知らなかった訳で。
 だから、●は定められた脚本通りに動くだけ。
 穴がここに有っても無くても、●には関係が無い。
 ……そう、●達は人形と大差が無い存在と言えた。
< 2 / 124 >

この作品をシェア

pagetop