虫の本
 私の対応に気を良くした彼女は、歩きながら言葉を続けた。
「そうそう、その調子。行き先と言うか……目的はね、司書さんを探す事。とりあえずカウンターを目指すけど、居ない事も多いから、遭遇出来るかどうかは分からないけどね。それでも、挨拶くらいはしに行っておいた方が良い」
「司書さん?」
「そ。いい? 怖い目に遭いたくなかったら、“何があっても絶対に逆らっちゃ駄目”だからね。分かった?」
「は、はあ……」
 ここは図書館なんだし、そりゃあ司書の一人や二人くらい居ても良いと思うけど。
 でも、逆らっちゃ駄目って……
 曖昧に返事をした私は、ここで一つ気になる事に思い当たる。
 そう言えば、これだけ歩いてもまだ図書館のスタッフらしき人は一人も見てないってのは、どういう事なんだろう?
 来館してる、他のお客さんも見かけない。
 常識外の場所に放り出されたせいで、当たり前の事を失念してしていたようである。
 ふと浮かんだ疑問について、止まりかけていた頭でぼんやりと考えていた、まさにその時だった。

「なあんだ、僕に用事があったのなら、そう言えば良いじゃないかあ」

 不意に後ろから声をかけられた。
 間延びした、ユルい男声だった。
 ぎょっとして振り返ると、そこにはボサボサ髪の男性が座り込んで、読書に耽っている。
 真後ろ──そこには確かにさっきまでは誰も居なかったはず。
 だって、彼が堂々と居座っている場所は、たった今、私達が通り過ぎた場所である。
 通路の真ん中に座り込んでいる彼を、見落とせるはずが無い。
 正直言って気味が悪い……その存在も、容姿も。
 猫背な為に正確には分からないけど、恐らくかなり長身。
 黒いスーツ姿であるものの、ワイシャツの二番目と三番目のボタンが留めてあるだけで、全くビシッとした雰囲気が無い。
 スーツは皺だらけでノータイ。
 それどころか、館内であるにも関わらず彼は裸足だった。
 そのくたびれ方にあまりにも違和感が無いせいか、彼は若いようにもそうでないようにも見える。
 そしてくすんだ青い髪──ちょっとばかり変わったセンスの持ち主だと言えよう。
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