愛という名の世界
最終話
最終話
宇宙空間に到達すると弥の目の前にはきらきらと輝く光の集合体が現れる。弥は笑顔を浮かべ『それ』に話しかける。
「ありがとう、貴方が私と子供を守ってくれていたのね」
「我は其方の調査を円滑にすべく動いたまでのこと。他意は無い」
「ユタを補助者とした件も?」
「同じくだ」
「そう、じゃあそういうことにしておいてあげるわ」
光の塊である『それ』から感情を推し量ることはできないが、人間だとしたら照れている可能性が高いと踏む。弥が内心喜んでいると『それ』が話しかける。
「両眼の色から当初の通り蒼き地球を未来に見ているようだが、念のために再度問う。地球の軸を正常に戻し歴史の逆行まで行うのだな?」
「ええ、それが私の結論よ」
「人としての結論ではないのか?」
「人を知った上での結論よ。勿論、母としての結論とも言えるわ」
「人に傾倒しすぎとも思えるが?」
「それはそうよ、私は人として愛を知ってしまったのだから」
「おそらく容認されまい。存続否定派をどう抑えるつもりか?」
「私が持つ今の地位や存在を返上し、この身を犠牲にして地球を救う」
弥の強烈な発言に『それ』は押し黙る。
「異端な私がいなくなれば、否定派もさぞ喜ぶでしょ?」
「其方は何も得ず消えて行く気か? 子も含め人としての幸せすら放棄すると言うのか?」
「まさか、ただでは転ばない。この身体は地球に返し、生前の君島弥の記憶を植え付ける。私の記憶はなくなるけど、私と勇利さんの子供は生きていく。彼らが人として幸せな人生を送ってくれれば私は本望」
「其方が君島弥として生きれば良いのでは? 人としての寿命は短いながら、満足はできよう」
「私は元々人間じゃないわ。なのに人間としての幸せをたくさん知った。それで十分。この子のためなら、私はどんな犠牲も厭わない……」
お腹をさする弥を『それ』はじっと見守る。そして、弥の決意が固いと理解すると再び問いかける。
「では、地球の軸を正常に戻し時の流れを空条勇利の事故死以前まで戻す。同時に事故の回避も関連付けておく。其方の身体を地上に戻すタイミングで生前の君島弥の記憶を移植する。これで相違ないな?」
「ええ、お願い。後、付け加えるなら、君島弥の得た辛い記憶の部分だけは消去しておいて欲しい。殺害された記憶なんて必要ないもの。それと遡り亡くなる前の宮前純子の身体から癌細胞除去も同時にお願い」
「………了解した」
弥の出した殉じる覚悟を無駄にしないよう『それ』は即座に願いを実行する。紅い星が一瞬のうちに再び青い星へと再生したかたと思うと、弥の肉体は地上に送られる。弥の姿から解放され光の集合体に戻った『それ』は、美しく廻る青い星を見つめ一言だけ呟いて地球を後にした。
「さようなら、勇利さん……」
十月、教員採用試験合格の報告を一早く弥に伝えるべく早歩きでいつもの歩道を歩いていると、突然路面につまづき派手に転倒してしまう。周りの歩行者に心配される中、顔を赤らめながれ勇利は足早に現場を離れる。いくら急いでいたからと言っても、何もない平坦な道でつまづくのは運動神経に自信のあった勇利にとっては痛恨の極みだ。
自身の行為を恥じながら歩いていると視線の先に怪しい動きをする車が目につく。その居眠りしている運転手の姿を確認し、歩道の先を歩く少女を見た瞬間、勇利は大きな声で叫んだ。
「危ない! 下がれ!」
勇利の声で驚いた少女は条件反射で立ち止まったあと後方に走り、暴走した車が間一髪すれすれで少女の前を通り抜けブロック塀へと激突した。居眠り運転であることは明らかであり、もし先の歩道でこけてなかったらタイミング的に自分も危なかったとゾッとする。
立ちすくむ少女の安全を確認するとホッと胸を撫で下ろす。事故を起こした運転手も動揺はしているものの大きな怪我もないようで、勇利は気持ちを切り替え自宅へと足早に駆けて行った。
試験結果の報せを今か今かと待ち構えているであろう弥を想像しながら自宅に帰ると、意外にもリビングのソファでうたた寝している姿が目に入ってくる。疲れているのか帰宅した勇利には全く気がついていない。寝室からタオルケットを持ち出しそっと身体にかけると、弥はゆっくりと目を開ける。
「勇利……、あれ、私寝てたの?」
「ごめん、起こしたみたいだね」
「ううん、私こそごめんなさい……、えっ!?」
驚いた顔をする弥を見て勇利は訝しがる。辺りをきょろきょろすると、じっと勇利の顔を凝視する。その表情からは心底驚愕している様子が伝わり勇利も訝しがりながら訊ねる。
「どうした? なにかおかしなことでも?」
「ゆ、勇利、君よね?」
「まあ、勇利だね。どう見てもそうだろ?」
「歳はいくつ?」
「ん、今年で二十三だけど?」
「……、ここはどこ?」
「ここは僕の自宅。えっ、もしかしてまた記憶喪失?」
「記憶喪失……、よくわからない。ちょっと状況を整理したいんだけどいいかしら?」
弥の話を聞くと直近で一番新しい記憶は高校を解雇され晴れて勇利と恋人になれた辺りだと語った。真希からの謝罪のことも覚えていたが、殺人事件の記憶は全くないようで勇利は敢えて事実を伏せた。
ここ五年間の記憶と、登山で再会してから以降の記憶がすっぽりと抜けていることに気がついた勇利はハッとする。
「ちょっと右足首を見せてもらってもいい?」
勇利の問いにスカートの裾を少し持ち上げ弥は足首を見せる。そこには登山で怪我をしたときの縫合跡が見て取れる。これにより身体は昨日までの弥と同じと分かるが、記憶の部分のみが亡くなる前の弥に戻ったと理解する。
しかし、何の前触れもなく急に起こったこの現象に胸の鼓動が早くなる。それと同時に完璧な記憶と技術を持ちつつ、時にとんでもない言動を見せた昨日までの弥が消えたことを悟り、心の中に寂寥感が込み上げる。
その一方で五年前に亡くなった弥が返ってきたという事実も喜ぶべきことであり、それが勇利の心情をかき乱していた。ただ、混乱しているのは勇利だけでなく、弥も同じで考え込む勇利を不安そうな面持ちで見つめている。
「勇利君……」
「ああ、ごめん。えっと弥は五年前に事故に遭ってね。記憶喪失と昏睡状態が続いていたんだよ。この足首の傷はそのときのものなんだ。弥も記憶にないだろ?」
「ええ」
「で、ここ最近になって奇跡的に回復したんだ。今日みたいにたまに記憶喪失気味にはなるけどね。もう慣れたよ」
自然な笑顔で嘘をつき記憶の無い弥を優しく気遣う。真実を口にしたところで誰も喜ばないと勇利は理解していた。
「そ、そうなんだ。ごめんなさい、私って凄く迷惑かけてるわね」
「いや、こうやって弥が元気に生きてくれてるだけで、僕は幸せだから」
「勇利君……」
照れくさそうに弥は微笑み、その笑顔に堪らず勇利は正面から抱きすくめる。弥は抵抗することなくそれを受け入れ、温かい胸の中に身をゆだねる。弥にとってはほんの数日ぶりくらいの抱擁だが、勇利にとっては五年ぶりに返ってきた弥の存在を確かめる行為となった――――
――夏、病院のベッドで元気な男の赤ちゃんを抱きながら弥は幸せ満面の笑顔を見せる。窓辺に飾られた豪華な胡蝶蘭が温かな風に吹かれ揺られ、傍に座る勇利は穏やかな表情で二人を見守っている。
出産に至るまでの間、勇利が危惧していた記憶の複合による齟齬は全く無く本来の弥で完全に統一されていた。登山で出会った弥がもう帰って来ないことは想像でき、寂しい反面この事実は自分だけが秘匿して生きて行くことを心に誓う。
今となっても全く理解のできない出来事だったが、純粋に神様のくれたチャンスと捉え弥と生まれたきた子供を守って行こうと決意する。寝息を立て始めた赤ちゃんを見て弥は勇利の方を向く。
「ねえ、勇利。この子の名前は考えてる?」
「名前か。辞典とかで結構調べたんだけど、なかなかしっくりくる名前が出てこなくてまだ決め兼ねてるよ。弥は何か考えてた?」
「ええ、実はちょっと思い浮かんだ名前があるのよ」
「へえ、どんなの?」
「夢太(ゆた)、夢って漢字に太いって書いてユタ。まあ、ユメタとも読めちゃうんだけど」
「夢太か。夢に向かって太く大きく生きて欲しい、って感じ?」
「そんな感じ。夢に向かって努力してきた勇利を見て、こんないい男になって欲しいって思って。そしたら、なんかパッと頭の中で浮かんだのよ。ユタって」
「そうか、じゃあこの子の名前はユタで決まりだな」
すやすやと眠る夢太の顔を覗き込みながら、二人の顔からは同時に笑みが零れる。地球の中で生まれたその小さな命が、地球を覆うほどの大いなる存在から生まれたことを誰も知らない。一つの出会いにより生じた愛が世界を変え、宇宙の法則まで覆したという事実さえも。
(了)
宇宙空間に到達すると弥の目の前にはきらきらと輝く光の集合体が現れる。弥は笑顔を浮かべ『それ』に話しかける。
「ありがとう、貴方が私と子供を守ってくれていたのね」
「我は其方の調査を円滑にすべく動いたまでのこと。他意は無い」
「ユタを補助者とした件も?」
「同じくだ」
「そう、じゃあそういうことにしておいてあげるわ」
光の塊である『それ』から感情を推し量ることはできないが、人間だとしたら照れている可能性が高いと踏む。弥が内心喜んでいると『それ』が話しかける。
「両眼の色から当初の通り蒼き地球を未来に見ているようだが、念のために再度問う。地球の軸を正常に戻し歴史の逆行まで行うのだな?」
「ええ、それが私の結論よ」
「人としての結論ではないのか?」
「人を知った上での結論よ。勿論、母としての結論とも言えるわ」
「人に傾倒しすぎとも思えるが?」
「それはそうよ、私は人として愛を知ってしまったのだから」
「おそらく容認されまい。存続否定派をどう抑えるつもりか?」
「私が持つ今の地位や存在を返上し、この身を犠牲にして地球を救う」
弥の強烈な発言に『それ』は押し黙る。
「異端な私がいなくなれば、否定派もさぞ喜ぶでしょ?」
「其方は何も得ず消えて行く気か? 子も含め人としての幸せすら放棄すると言うのか?」
「まさか、ただでは転ばない。この身体は地球に返し、生前の君島弥の記憶を植え付ける。私の記憶はなくなるけど、私と勇利さんの子供は生きていく。彼らが人として幸せな人生を送ってくれれば私は本望」
「其方が君島弥として生きれば良いのでは? 人としての寿命は短いながら、満足はできよう」
「私は元々人間じゃないわ。なのに人間としての幸せをたくさん知った。それで十分。この子のためなら、私はどんな犠牲も厭わない……」
お腹をさする弥を『それ』はじっと見守る。そして、弥の決意が固いと理解すると再び問いかける。
「では、地球の軸を正常に戻し時の流れを空条勇利の事故死以前まで戻す。同時に事故の回避も関連付けておく。其方の身体を地上に戻すタイミングで生前の君島弥の記憶を移植する。これで相違ないな?」
「ええ、お願い。後、付け加えるなら、君島弥の得た辛い記憶の部分だけは消去しておいて欲しい。殺害された記憶なんて必要ないもの。それと遡り亡くなる前の宮前純子の身体から癌細胞除去も同時にお願い」
「………了解した」
弥の出した殉じる覚悟を無駄にしないよう『それ』は即座に願いを実行する。紅い星が一瞬のうちに再び青い星へと再生したかたと思うと、弥の肉体は地上に送られる。弥の姿から解放され光の集合体に戻った『それ』は、美しく廻る青い星を見つめ一言だけ呟いて地球を後にした。
「さようなら、勇利さん……」
十月、教員採用試験合格の報告を一早く弥に伝えるべく早歩きでいつもの歩道を歩いていると、突然路面につまづき派手に転倒してしまう。周りの歩行者に心配される中、顔を赤らめながれ勇利は足早に現場を離れる。いくら急いでいたからと言っても、何もない平坦な道でつまづくのは運動神経に自信のあった勇利にとっては痛恨の極みだ。
自身の行為を恥じながら歩いていると視線の先に怪しい動きをする車が目につく。その居眠りしている運転手の姿を確認し、歩道の先を歩く少女を見た瞬間、勇利は大きな声で叫んだ。
「危ない! 下がれ!」
勇利の声で驚いた少女は条件反射で立ち止まったあと後方に走り、暴走した車が間一髪すれすれで少女の前を通り抜けブロック塀へと激突した。居眠り運転であることは明らかであり、もし先の歩道でこけてなかったらタイミング的に自分も危なかったとゾッとする。
立ちすくむ少女の安全を確認するとホッと胸を撫で下ろす。事故を起こした運転手も動揺はしているものの大きな怪我もないようで、勇利は気持ちを切り替え自宅へと足早に駆けて行った。
試験結果の報せを今か今かと待ち構えているであろう弥を想像しながら自宅に帰ると、意外にもリビングのソファでうたた寝している姿が目に入ってくる。疲れているのか帰宅した勇利には全く気がついていない。寝室からタオルケットを持ち出しそっと身体にかけると、弥はゆっくりと目を開ける。
「勇利……、あれ、私寝てたの?」
「ごめん、起こしたみたいだね」
「ううん、私こそごめんなさい……、えっ!?」
驚いた顔をする弥を見て勇利は訝しがる。辺りをきょろきょろすると、じっと勇利の顔を凝視する。その表情からは心底驚愕している様子が伝わり勇利も訝しがりながら訊ねる。
「どうした? なにかおかしなことでも?」
「ゆ、勇利、君よね?」
「まあ、勇利だね。どう見てもそうだろ?」
「歳はいくつ?」
「ん、今年で二十三だけど?」
「……、ここはどこ?」
「ここは僕の自宅。えっ、もしかしてまた記憶喪失?」
「記憶喪失……、よくわからない。ちょっと状況を整理したいんだけどいいかしら?」
弥の話を聞くと直近で一番新しい記憶は高校を解雇され晴れて勇利と恋人になれた辺りだと語った。真希からの謝罪のことも覚えていたが、殺人事件の記憶は全くないようで勇利は敢えて事実を伏せた。
ここ五年間の記憶と、登山で再会してから以降の記憶がすっぽりと抜けていることに気がついた勇利はハッとする。
「ちょっと右足首を見せてもらってもいい?」
勇利の問いにスカートの裾を少し持ち上げ弥は足首を見せる。そこには登山で怪我をしたときの縫合跡が見て取れる。これにより身体は昨日までの弥と同じと分かるが、記憶の部分のみが亡くなる前の弥に戻ったと理解する。
しかし、何の前触れもなく急に起こったこの現象に胸の鼓動が早くなる。それと同時に完璧な記憶と技術を持ちつつ、時にとんでもない言動を見せた昨日までの弥が消えたことを悟り、心の中に寂寥感が込み上げる。
その一方で五年前に亡くなった弥が返ってきたという事実も喜ぶべきことであり、それが勇利の心情をかき乱していた。ただ、混乱しているのは勇利だけでなく、弥も同じで考え込む勇利を不安そうな面持ちで見つめている。
「勇利君……」
「ああ、ごめん。えっと弥は五年前に事故に遭ってね。記憶喪失と昏睡状態が続いていたんだよ。この足首の傷はそのときのものなんだ。弥も記憶にないだろ?」
「ええ」
「で、ここ最近になって奇跡的に回復したんだ。今日みたいにたまに記憶喪失気味にはなるけどね。もう慣れたよ」
自然な笑顔で嘘をつき記憶の無い弥を優しく気遣う。真実を口にしたところで誰も喜ばないと勇利は理解していた。
「そ、そうなんだ。ごめんなさい、私って凄く迷惑かけてるわね」
「いや、こうやって弥が元気に生きてくれてるだけで、僕は幸せだから」
「勇利君……」
照れくさそうに弥は微笑み、その笑顔に堪らず勇利は正面から抱きすくめる。弥は抵抗することなくそれを受け入れ、温かい胸の中に身をゆだねる。弥にとってはほんの数日ぶりくらいの抱擁だが、勇利にとっては五年ぶりに返ってきた弥の存在を確かめる行為となった――――
――夏、病院のベッドで元気な男の赤ちゃんを抱きながら弥は幸せ満面の笑顔を見せる。窓辺に飾られた豪華な胡蝶蘭が温かな風に吹かれ揺られ、傍に座る勇利は穏やかな表情で二人を見守っている。
出産に至るまでの間、勇利が危惧していた記憶の複合による齟齬は全く無く本来の弥で完全に統一されていた。登山で出会った弥がもう帰って来ないことは想像でき、寂しい反面この事実は自分だけが秘匿して生きて行くことを心に誓う。
今となっても全く理解のできない出来事だったが、純粋に神様のくれたチャンスと捉え弥と生まれたきた子供を守って行こうと決意する。寝息を立て始めた赤ちゃんを見て弥は勇利の方を向く。
「ねえ、勇利。この子の名前は考えてる?」
「名前か。辞典とかで結構調べたんだけど、なかなかしっくりくる名前が出てこなくてまだ決め兼ねてるよ。弥は何か考えてた?」
「ええ、実はちょっと思い浮かんだ名前があるのよ」
「へえ、どんなの?」
「夢太(ゆた)、夢って漢字に太いって書いてユタ。まあ、ユメタとも読めちゃうんだけど」
「夢太か。夢に向かって太く大きく生きて欲しい、って感じ?」
「そんな感じ。夢に向かって努力してきた勇利を見て、こんないい男になって欲しいって思って。そしたら、なんかパッと頭の中で浮かんだのよ。ユタって」
「そうか、じゃあこの子の名前はユタで決まりだな」
すやすやと眠る夢太の顔を覗き込みながら、二人の顔からは同時に笑みが零れる。地球の中で生まれたその小さな命が、地球を覆うほどの大いなる存在から生まれたことを誰も知らない。一つの出会いにより生じた愛が世界を変え、宇宙の法則まで覆したという事実さえも。
(了)