僕を止めてください 【小説】
「手を…ポケットから…出してくれませんか?」
僕は幸村さんから視線を外すことが出来ないまま、事態の収集にもなんにもならないことをお願いした。
「あ…ああ」
幸村さんは呆然としたようにゆっくりポケットから手を抜いた。幸村さん自体も僕になにをどう言っていいのかわからないようだった。この後に及んで、どちらかが不自然に視線を外すことが一番恥ずかしく思えた。少なくとも自分からはそれは到底出来なかった。幸村さんもそうなのかどうなのかよくわからないが、まばたきも出来ずに目を丸くして僕を見ている。
目を逸らしたら、負けだ。
なんの競争をしているのかは不明だった。気まずさだけが階乗的に跳ね上がっていく。その時、幸村さんが口を開いた。さすがだ。僕は大人の余裕に感謝しようと思った。だがそれははすぐに却下された。
「岡本君…俺のこと、好きなの?」
「…は?」
「だって。それ」
「関係無いです」
口を開いた幸村さんのその先があまりにも斜め上過ぎて、僕は呆気にとられた。
「いや…だって、それ」
同じことを2回言ったのは、大事なことだったからだろうか? 僕は自分がピンチなのも忘れて、思わず幸村さんに質問していた。
「その発想はいったいどこから来るんですか?」
「そこ、から」
「関係無いです」
僕は自分のソコを臆面もなく指差された恥ずかしさの勢いで、幸村さんの言葉を断ち切るように同じことを2回言った。大事なことだからだろう。断ち切った途端僕はいきなり虚脱感に襲われた。ストンと腰が落ち、僕は自然に床に正座する格好になっていた。このわけのわからないピンチの上塗りは一体何なんだ。ここで余計な体力を使っていることがもう間違っている。僕はそう判断した。
そうだ。ドラッグストアにハッカ油を買いに行こう。
僕は目の前の大きな黒い壁を無視することにした(幸村警部補は身長が高くてガタイが良く、いつも黒いスーツを着ている)。これは壁だ。僕は夢を見ているに違いない。僕はそう思うと、ごく自然に幸村さんから目線を外し、ずっと掴んでいる冷蔵庫の取っ手を頼りに立ち上がった。
「買い物行ってきます」
僕はスルッと幸村さんの脇を抜けて、遺体を見ないように戸口を潜り、後ろ手に戸を閉めた。
「おいっ! 待てよ、岡本君!」
僕は後ろから呼ぶ声を聞きながら、振り返りもせずに自転車置き場まで一直線に歩いて行った。