僕を止めてください 【小説】
解剖は予定通りに始まった。ハッカ油と保冷剤と、斜め上の幸村さんが気を散らしてくれたおかげで、僕は自殺遺体の影響を受けながらも、回りのスタッフにはなんとかバレないように振る舞うことが出来た。幸村さんの視線が時々突き刺さるのがわかった。
炭化しているのは皮膚表面だけ。首と顔の浅い炭化は、大きなパイプ枕のプラスチックのパイプが燃焼したからだった。そしてその皮下から、思った通り縊死…法医学的には「縊頸」の徴候がはっきりと出た。典型的な結節係蹄、焼けていても判る明らかな表皮剥脱の斜走、内部索溝の皮下出血による生活反応、脳には虚血が認められた。定型縊死にあるはずの舌の飛び出しが無いのは、熱による凝固で、舌が縮んでしまったものである。
首吊り自殺の屍体を布団に寝かせ、寝タバコの不始末だと言ったその奥さんから通報直後にどんな聞き取りをしたのか詳しくはわからないが、その夫が生命保険の加入後免責期間の3年内で(いわゆる、加入後3年間は自殺しても保険金が下りない期間)死亡したということは幸村さんの手配でわかっていた。
2時間の解剖の後、病理検査と血液検査の段階になった。各内臓の組織検査と、今回は顔の表皮が炭化していたため、本人確認ということで、歯科鑑定を行う予定となった。午前中の弾丸痕の剥離金属と一緒に、科捜研行きの試料をまとめてもらう。
殺人ではない。だが。
なるべく遺体と離れた仕事をしながら片付けが終わり、立会の警察官は幸村さんも含め署に帰っていった。僕は鑑定書を書くために、スタッフルームでパソコンに向かった。