僕を止めてください 【小説】
本人はわかっているのかどうか知らないが、幸村さんは昼の解剖室での接近速度とほぼ同じ速度で、ソファの僕の1mのところまで詰め寄った。この距離がこの人の接近距離なのか…と僕は回らない頭で変なところで変なプロファイルを付け加えていた。ただ気になるのは、顔がそれほど笑ってはいないことだった。幸村さんはいきなり本題に入った。
「君はあれか? 目の前で見てたのか? あの旦那が首くくってるところ」
「え…ど…どういう意味ですか?」
「検視で焼損死体というのはわかってた。でも残念ながら目視じゃ死因が特定されてなかった。薬物でもガス自殺でも煉炭でも可能性はあるだろ。君はいきなり頸の回り調べてたわな。それがビンゴだったわな。炭化した表皮の下が見えんのか、君は?」
「あ…まぁ…経験的に」
と言うしかない。
「知ってたんだろ。どこから情報入った?」
おお…これは尋問の感じじゃないかな、と僕は今、この場で軽く被疑者扱いされてると認識した。まぁ、そうなってもしょうがない。あやしくない申し開きは出来そうにない。炭化した皮膚からあまりにもナチュラルに、しかも速攻で索状痕を見つけてしまったのは迂闊だったらしいと反省するが、遅いし、その反省を生かせるようにも思えない。幸村さんが僕に刺さるような視線を投げていたのはそういうこともあったのかと、今更ながらに納得した。
「さっきも逃げたしな。あそこでなにやってたの。誰かと会ってたの? 解剖室で」
「誰もいないところで独りで眺めたかっただけですよ」
「冷蔵庫につかまって?」
「あれは…」
「なんなの」
「…幸村さん。僕の前の職場のアダ名知ってますか?」
まぁ、もう言うしか無い…と僕は腹を決めた。変人の僕には常時2、3個のアダ名がついていて、陰で囁かれていた。岡本文書館、そして。
「なにそれ」
「自殺リトマス紙」
「はぁ?」
「電話でも何でもして確認してみて下さい。元同僚、上司、誰でも知ってます。あの…自殺は…わかるんです。匂いで」
「なにそれ」
「特技です」
「意味がわからん」
「刑事の勘とか言ってたじゃないですか。なぜ法医学者の勘って言っちゃいけないんです?」
「君があやしすぎるからだ!」
「あんな恥ずかしいことしておいて…」
僕はそう言ってため息をついた。